太陽が傾き、僕らがいる廃ビルの中も薄暗くなってきた。
ずっとここに居続けるわけにもいかないから、外の人通りが少ないことを確認して、家に戻るか。そんな風に考えていた時、ハクアが言った。
「ソウ、わたしという存在の異常性と危険性は、分かってくれたと思う」
「ん、まあ、あんなことを見せられたら、認めざるを得ないというか……。危険かどうかは、分からないけど」
「今は、正常なシステムによるバグ動作の抑え込みも働いているけれど、それもいつまで持つか分からない。やがてバグは増大して、世界を飲み込んで、全て消し去ってしまう。だから、そうなる前に、わたしを殺して」
そういうことだったのか。
ハクアはこれまでも何度か、わたしを殺して、と言っていた。僕にはその意味が理解できていなかった。けれど今、ようやく分かった。
バグである自分が存在していると、世界を壊してしまう。でも自分で自分を終わらせることはできない。だから、殺して、ということだったんだ。
「……前にも言ったけど、僕にはそんなことは、できない。できるわけがない」
「どうして」
「普通の人間は、他の人を殺すなんてしたくないんだよ」
「わたしは、ヒトではない。この世界に害をなす、バグだよ」
「でも!」
思わず大きな声が出た。ハクアがビクンと体を震わせ、僕の顔を見る。
「僕は嫌だ! 君と何日も一緒に過ごして、情だって湧いてる。美味しいものを食べて小さく笑うところとか、指輪をあげた時に嬉しそうにしてくれたところとか、そんな表情を見てると、今でも君が人間じゃないなんて思えないんだ。それに……白亜とまったく同じ見た目の君を手にかけるなんて……僕には、絶対に、無理だ」
「でも、わたしはいずれ、世界を消してしまう。それは今いるこの世界だけでなく、無数に並行運用されている他の世界も消滅の対象となる。そこには、ソウが望む、水無月白亜が生きている世界も含まれる」
「そうだとしても……」
僕は考える。このまま少しずつ世界が壊れていくのだとしても、この手でハクアを殺すなんてことは絶対にしたくない。そんな選択を選ぶことはあり得ない。
バグであるハクアが生み出されたのは、この世界を運用しているMOTHERというシステムが、終わりたいと願ったから。
MOTHERが終わりたいと願うのは、何度世界を作り直しても争い合って滅亡してしまう人類に絶望したから……?
……それなら。
「ハクア」
「なに」
「君がバグであることは分かった。そのバグの影響でこの世界の物が消えていく、というのも実体験で理解した。確認したいんだけど、物とか、人とか、消したいものを狙って消滅させるってのは、できるのかな?」
「それは、分からない」
「じゃあ……実験しよう」
僕は立ち上がり、ハクアの手を引いて彼女も立たせた。ハクアがいつもの無表情で、僕が言った言葉をオウム返しする。
「実験」
「そうだ。まずは家に帰ろう。それから、色々試して、君の力を調べるんだ」
「わたしの、力」
彼女の手を握ったまま、僕はビルの出口に向かい歩き出す。ドロドロとした絶望の暗闇の中に小さな穴が開いて、そこから幽かな光が見えたような、そんな気分だった。
*
外に人の往来がないことを確認しながら、何とか家まで到着した。
階段を上って僕の部屋に入ると、学習机の上に転がっていた消しゴムを掴み、部屋の中央、ミニテーブルが消失したフローリングの上に置いた。
「まずは、これからいってみよう。今ここに置いた消しゴムを、意識して消すことはできる?」
「なぜ」
「大事なことなんだ。君の、物を消滅させる力がどれくらい制御できるものなのか、把握しておきたい」
「……わかった。やってみる」
僕と手を繋いだまま、ハクアは床に置かれた消しゴムを見つめた。数秒後、音もなく消しゴムが消え去った。
「本当に消えた……すごい」
担任教師、サンドイッチ、テーブルーーこれまでは消えてから気付いたものばかりだから、物が消える瞬間をこの目で見るのは初めてだ。まるで精巧なマジックのようだと思ってしまう。
「ハクア、ありがとう。少なくともこの距離と大きさなら、君が意識したものを消せるというのが分かったよ」
「なぜ、礼を言うの」
「言っただろう、君の力を把握することが大事だって。次は、そうだな……」
ハクアとの身体的な接触がないと、人や物が消えたという「消失の認識」が薄れていってしまうのは、これまでも経験している。そして今、ハクアと手を繋いでいる状態なら、物が消える現象をはっきりと認識することができた。
それなら、ハクアに触れていない状態で、消失の対象をしっかり目視しながら目の前で物が消える場合、どんなことになるのか知っておきたい。
近くにあったティッシュを箱から一枚引き抜き、ハクアの手と繋いでいない方の右手で握って丸めた。それを消しゴムと同じように床の上に置く。
「次はこれなんだけど、今度は、手を離してやってみよう。これから僕は君の手を離す。僕が意識できるように、君にはその丸めたティッシュを指さしてほしい。それから十秒経ったら、そのティッシュを消してくれ。その後すぐに、僕の手に触れてほしい。……分かった?」
「わかった」
と、ハクアは小さくうなずいた。
少し緊張した。ハクアは分かったと言ってくれたけれど、手を離して時間が経てば、僕は担任教師や様々な物が消えたということを完全に忘れてしまうのだろうか。そうなったら、廃ビルでハクアから聞いた衝撃的な世界の真相のことも、忘れてしまうのかもしれない。けれど、どうなるかを知っておかなければ、対策もできない。ハクアを信じよう。
「じゃあ、行くよ」
繋いでいた手を離し、ハクアから一歩分の距離を空けて立った。
すぐに頭の中にノイズが発生するのが分かった。意思や記憶といった目に見えないものが、強引に削り取られていくような感覚。子供の頃に好奇心で、父が飲んでいた酒を舐めてみたことがあったけど、その時に似た眩暈を覚える。いつの間にか入れ替わっていた担任教師、食べられなかったサンドイッチ、なくなって少し不便になった部屋のテーブル、ついさっき目の前で音もなく消滅した消しゴム。それらの認識が自分の中から霧散していく。そして。
「……あれ、ハクア、何してるの?」
ハクアは黙って、床の中央に落ちているティッシュを指さしていた。
「なにこれ、ゴミ? 捨てろってことかな? あはは、それくらい君がしてくれてもいいんだけど」
しゃがんで、ティッシュを拾おうと手を伸ばしたら、すぐにハクアに声で止められた。
「待って」
「え、なに?」
「見て」
彼女の指さす先には、変わらず丸められたティッシュがある。ハクアがティッシュを使う光景はなぜか想像がつかないから、僕が使ったものだろうか。どうしてこんなところに置いたままにしていたのか。ゴミ箱ならすぐそこにあるのに。
「……あれ?」
ふと、自分が何をしていたのか忘れてしまった。何かをしようとして床にしゃがんだはずなのに、僕の目の前には何もない、床のフローリングがあるだけだ。こういうことはたまにある。キッチンで冷蔵庫を開けたのに、何を取ろうとしたのか忘れてしまった、とか、自分の部屋で読書に熱中していたのを中断して階段を下りたのに、何のために移動したのか忘れてしまったとか。
近くに立っているハクアを見た。彼女は僕の近くの床を無言で指さしている。
「ハクア、何してるの?」
彼女は腕を下ろし、僕に一歩近付き、しゃがむ。そして僕の手の上に、そっと彼女の手を重ねた。途端に頭の中で情報が弾けた。はっと息を呑む。
「……ありがとう、ハクア。お願いした通りにやってくれたんだね」
「うん」
担任教師、サンドイッチ、テーブル、消しゴム、丸めたティッシュ。MOTHERのこと、ハクアのこと、僕のこと。……うん、ちゃんと認識できている。
数秒前の、様々なことを忘れてしまっていた自分のことも記憶にあるから、自分の中の認識や記憶がごっそりと抜け落ちてしまうという事象に、改めて恐れを感じた。
ハクアと身体的接触を失うと、MOTHERやバグに関わることを忘れてしまうのは、避けようがなさそうだ。でもハクアと触れればすぐに思い出すのなら、対策はできる。幸いハクアは、お願いしたことは律儀にやってくれるし。
じゃあ、実験を次の段階に進めよう。