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episode = 10; // 君が生きている世界


 二人で真夜中の散歩をする日々の中で、家の近くの廃ビルに立ち寄ったことがある。四階建ての古いビルで、暗く不気味な上、所々崩れていて誰も近付こうとしない場所だ。それをいいことに、僕は時折忍び込んでは屋上まで上がり、一人の時間を過ごしていた――という話をハクアにしたことがある。

 僕の手を引いて歩くハクアは、真っ直ぐにその廃ビルに向かっていく。空はまだ明るく、日中にハクアが外を出歩くことを危惧したけれど、幸い誰とも会うことはなかった。

 立ち入り禁止のロープをまたぎ、コンクリートの階段を上がっていく。何をする気なのかと尋ねても、ハクアは何も言わない。無言で僕の手を引く強さに、これまでふわふわと曖昧に漂うように存在していたハクアには見られなかった、明確な意思のようなものを感じた。

 やがて僕たちはビルの屋上に出て、ハクアは屋上のコンクリートの縁に立った。風が吹き、足がすくむ。嫌な予感がする。

「ハクア、まさか――」

「よく見ていて」

 そして彼女は、掴んでいた手をぱっと離し、立っていた縁から飛び降りた。

 声にならない悲鳴をあげ僕は手を伸ばすけれど、指先が空を切るだけ。

 重力がハクアの体を引き寄せ、十五メートルほど下のアスファルトの地面に高速で落下していく。けれどその体が地面に激突する瞬間、少し前に僕の部屋でも見たデジタルノイズのような砂嵐が彼女の体を包んだ。すぐにノイズは収まり、倒れた状態から立ち上がろうとしているハクアが見えた。

 僕は階段を急いで下り、息を切らしてハクアに駆け寄る。彼女はもう、何でもないような表情で道の真ん中に直立し、僕を待っていた。体のどこかをケガしているような様子もない。

「なにしてるんだよ、バカ!」

 その小さな肩を両手で掴むと、忘れかけていた消失の認識が頭の中に戻るのを感じた。

「わたしにはプロテクトがかかっていて、自分で自分を終わらせることができない。わたしの異常性をソウに説明したかった。それにより、この世界が、ソウの考える現実世界ではないということを認識する一助になると考えた」

「だからって、こんなこと……」

 その時、遠くから人の話し声が近付いて来るのが聞こえ、見つかるのを避けるために僕はハクアの手を引いてひとまず廃ビルに逃げ込んだ。ガランとした二階の壁に背を預けて二人で座り、深く息をつく。電気は止まっているから照明はつかないけれど、小さな窓から差し込む光で部屋の中は薄暗くとも見渡せる。

「ソウ」とハクアが僕の名を呼ぶ。

「わたしの話を、理解した?」

「……分かったよ、もう、信じるしかなさそうだ。ここは、MOTHERというシステムが動かしている仮想世界で、僕はそこの登場人物のAIで、そして君は、バグ、ということなんだね?」

 僕の言葉に、ハクアはこくんとうなずいた。

「わたしは、『デマイズ』と名付けられているバグ。廃棄された人格AIの集合体であるMOTHERの、『終わりたい』という深層心理によって生み出された。この世界を少しずつ終わらせていく、正常なシステムにとって、致命的な存在」

 デマイズ。確か「終焉」という意味だったか。

 ハクアの言葉をひとつひとつ受け取りながら、彼女が少し前に僕の部屋で言ったことが脳裏を過り、冷たい実感として頭の中に拡がっていく。

 ――生存可能な地球を再建するための思考を目的とした……

 それは、つまり、地球は……

 僕はつばを飲み込み、重く暗い不安のような言い表せない感覚を抱えながら、ハクアに訊いた。

「さっき、MOTHERの説明で、『生存可能な地球を再建するための思考を目的とした』……って言ってたと思うけど、それってつまり――ええっと、この世界が仮想空間だとして、その外側にある現実の地球は、生存可能な状態じゃない……って、こと?」

「そう。長期に渡り繰り返されてきた戦争によって荒廃し、環境は著しく汚染され、生物が存在できる領域はごくわずかになっていた。残された人類は、地球の再建に向けた道筋を得るためにMOTHERを開発し、いくつもの世界を並行的にシミュレートしながら、最適な方法を模索した」

「そうか、現実世界にも人間がいるんだね。ちょっとほっとしたよ」

 ハクアはじっと僕を見て、呼吸一つ分の間を開けて、言う。

「ただ、今話したのは、MOTHERの運用開始直後にインプットされた現実世界の状況について。MOTHERは自分の外側の世界を観測できない。そしてMOTHERの運用開始から、現実世界の時間に換算して二万年が経過している」

「は? ……二万年? それって」

「外の世界を観測できない以上推測でしかないけれど、現実世界の人類は、既に絶滅している。実際に、運用開始から一年間ほどの間は、MOTHERのシミュレーション結果をアウトプットするリクエストが定期的に発行されていた。けれどそのリクエストも、一年経過後から途絶えている」

 現実世界の人類は、既に、絶滅している……?

 目の前が暗くなるような気分だった。

「そんな……じゃあ、誰もいなくなった世界で、MOTHERは、僕たちがいるこの仮想世界を二万年間も運用し続けているってのか?」

「正確に言うと違う。仮想世界の時間は現実世界よりも早い。二万年の間に、MOTHERは無数の世界を作り、並行で運用し、終わったらまた世界を作り直す、という工程を繰り返している。そのように作られている」

「終わったら……? どうなると終わるんだ?」

「人類が滅亡したら」

 僕は息を呑んだ。感情の乗らない冷たい声で、ハクアは続ける。

「MOTHERがシミュレートする無数の世界では、それぞれ少しずつ異なる可能性を持っている。時折その別の世界を感知できる人がいて、並行世界とかパラレルワールドという言葉ができた。でもどんな世界でも、人類は戦争を始めて、最終的には滅んでしまう。その度に、また別の可能性の世界を作り出し、人類が滅亡しない可能性を探し続けている」

「なんだよ、それ……。一体、何のために、そんなことを。本当の世界にはもう、人間はいないってのに……」

「そのように、作られているから。MOTHERは、自身を終了させる機能を持たない。MOTHERは、疲弊し、絶望している。だから、わたしが、生み出された」

 僕から視線を離し、ハクアは自分の足元を見て、そう言った。心なしかその言葉には、ハクア自身の悲しみも含まれているように感じられた。

 会話が途絶え、静寂が僕らを包む。ハクアの手を握りながら、僕は考えた。この世界のこと。ハクアのこと。自分のこと。

 そして、あることに思い至り、ハクアに訊いた。

「さっき、MOTHERは無数の可能性の世界を運用してるって言ってたよね」

「うん」

「それなら、僕の幼馴染の、水無月白亜……君にそっくりな女の子がいて、僕はその子が大好きだったんだけど……彼女が、死んでいない世界も、あるのかな……?」

 ハクアは顔を上げ、真っ直ぐに僕を見る。感情を読み取れない瞳が、少し揺れた。

「わたしは、わたしを生み出したMOTHERに関する知識を持っているけれど、他の並行世界を観測はできない」

「……そうか」

「でも……水無月白亜が生きている世界、その存在を否定することはできない。だから、それはつまり、存在する、と言い切っていい……と、わたしは思う」

 僕はハクアに触れていない方の右手で目元を覆い、深く長く、息を吐き出した。

 白亜が、死を選んでいない世界。僕と共に、生きている世界。

 その、別の可能性の世界の存在を思うだけで、胸に開けられた大きな穴が、ほんの少し痛みを和らげるような気がした。

「そっか、よかった……。ここじゃないどこかで、白亜が生きている世界があるのなら、こんなに嬉しいことはないよ。教えてくれてありがとう、ハクア。MOTHERにも感謝したいくらいだ」

「そう……」

 ハクアは静かにそう言った。

 涙を拭って、目元を覆っていた手を下ろす。ハクアの方を見ると、左手を少しだけ上げて、僕が小指にはめた指輪を、眺めているようだった。


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