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episode = 9; // 世界の万物はメタファーである


 わたしはバグだ、と、ハクアは言った。


 有名な『ファウスト』や『若きウェルテルの悩み』などを書いたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、「世界の万物はメタファーである」という言葉を残したらしい。

 メタファーとは「比喩」のことだ。前述のゲーテの言葉は、「世界にあるすべてのものはある種の比喩であり、それ自体が別のものを象徴している」という主張だと言われている。この世界が客観的な実体ではなく、そこに住む僕たちが主観的に解釈し意味を与えるものだ、という示唆。

 だから僕は、ハクアが言った「バグ」という言葉も、何らかのメタファーなのかと思った。バグというのは、パソコンやスマホやゲームなどの電子機器で、製造者が意図しない動きをする原因となる、プログラム上の誤りや欠陥のことを意味する。あるいは単純に英語で「虫」を指すこともあるだろう。

 目の前のハクアは、外観だけで言えばどこからどう見ても人間だ。その手を掴んで歩いたこともあるし、今だって僕の右手は彼女の左手に添えられている。だから、幽霊だとかホログラムとかの非実在の存在ではなく、確実にこの世界に実在していると言える。人間の外見を持ち、ヒトの言葉を話す彼女が、「虫」であるとも到底思えない。

 考えられるとしたら、やはり彼女はヒトを模したアンドロイドのようなもので、そのシステムや思考AI的なものにバグが発生している、ということだろうか。でもそれでは、今起きている異常事態――教師の入れ替わりや、机やサンドイッチの消失――と結びつかない。

 ――わたしは、バグだよ。

 彼女が言った、たった八音のその言葉を、頭の中で何度も反芻して、角度を変えて眺め直して、なんとかその難解なメタファーを読み取ろうとした。でもその結果として僕が口にした言葉は、情けない、ただの確認だった。

「バグ、って……どういうことなの?」

 ハクアは表情を変えないまま、真っ直ぐに僕の目を見て答える。

「わたしは、MOTHERの深層心理によって意図せず生み出された、バグ」

 マザー? ハクアの母親のことだろうか? 情報が何も増えていないどころか、理解不能なことが増えただけだ。

「ちょっと待って。僕に分かるように、順番に教えてくれない? まず、マザーってのは何? 君のお母さんのこと?」

「MOTHERの正式名称は、【Multidimensional-simulate Operatingsystem "Thought for Habitable Earth's Rebuild"】」

「……えっと、つまり?」

「生存可能な地球を再建するための思考を目的とした、多次元シミュレートを行うオペレーションシステムのこと」

 彼女の手に触れていない方の左手で、僕は頭を抱えた。説明を受けてもなお、まったく意味が分からない。

 生存可能な地球を再建? 多次元シミュレート? オペレーションシステム?

 それぞれの言葉の意味なら想像は付く。けれどそれを繋ぎ合わせた結果見えてくるはずのものが、いまだ謎に包まれている。

「ごめん、分からない。僕に教えてくれる気があるのなら、そのオペレーションシステムについて、順を追って説明してもらってもいいかな」

 ハクアは小さくうなずき、視線を落として床を見た。何も知らない僕に説明するための言葉を探しているのだろうか。

「……MOTHERは、世界をシミュレートしている。これは、分かる?」

「うん、辛うじて分かるよ。バーチャルリアリティとか、メタバースとか、そういうのがあるってのは聞いたことがある。そういう仮想世界のようなものを運用しているスーパーコンピュータみたいなものなのかな」

「簡単に言うと、そう」

 大きなゴーグル状のヘッドセットを頭部に装着して、コントローラーを両手に持った人が、VRの世界に没入してゲームをするようなコマーシャルを見たことがある。ゲームに限らずに、仮想空間で遠くの地に住む友人と会って語らったり、職場に行かずとも自宅にいながらバーチャルオフィスで集まって仕事をするなんてこともあるらしい。僕はそういう機器を持っていないから経験はないけれど。

「その、仮想世界を運用しているコンピュータが生み出したバグがハクア……ってことなんだろうけど、それが分からないよ。だって君はこうして僕の目の前にいるし、今手を触れてもいる。君は現実に存在しているじゃないか」

 ハクアは視線を上げ、再び僕を見つめた。

「ソウが何を理解できていないのか、分かった。ソウは、この世界の認識を改める必要がある」

「どういうこと?」

「MOTHERがシミュレートしているのは、この世界の中のどこかで動いている仮想空間ではない。この世界そのものをシミュレートしている」

 彼女が言っている言葉は分かった。けれど呑み込めない。その言葉を素直に受け取ろうとすることに、心の中で強力なブレーキがかかる。

「いや……いや、この世界が、シミュレート? あり得ないよ。だって、ここは、現実だし、僕はこうして実体があるし、君に触れている感触もある。痛みだって感じるし、空腹にもなるし、何かを食べれば味だって感じる」

「触覚、痛覚、味覚などの感覚というものは、脳が生み出す電気信号に過ぎない」

 僕は思わず笑ってしまった。

「じゃあ、本当の僕はこの世界の外で眠っていて、脳が機械か何かに繋がれて、電気信号で脳に偽りの感触を伝えているってこと? そんな映画が昔あったよね。機械に支配されている人間の真実に気付いたヒーローが、サングラスをかけたエージェントと戦うような。ハクアからそんなぶっ飛んだ話が出てくるなんて思わなかったな、あはは」

「その認識にも誤りがある。先ほどのわたしの発言も誤解を生むものだった。訂正と補足をする。感覚は脳の電気信号というのは間違いではないけれど、ソウの脳はどこにも存在しない。ソウの思考や言動や感覚は、MOTHERのシミュレーション世界で作られたキサラギソウという人格AIが、複雑なロジックに従って自立行動している結果によるもの。ソウに限らず、この世界に存在する全ての生命は、AIにより動いている」

「僕が、AIだって? はははっ、面白いね」

 右手はハクアの手に触れたまま、左手で自分の胸に触れた。制服のシャツの向こうに自分の体があり、そのさらに奥で、ドクンドクンと脈動する心臓の存在まで感じる。この僕が、AI、つまり、人工知能だなんて、この世界がシミュレーションだという以上に信じられない。

 真っ直ぐに僕を見つめるハクアの顔に、微かな悲しみのような感情が宿ったように見えた。その表情を見て、僕のお願い通りに丁寧に説明してくれている彼女の言葉を一笑に付そうとしている自分に、少し胸が痛んだ。でも、この胸の痛みすら、AIが生み出しているものだっていうのか?

 ハクアは静かに言葉を続けた。

「ソウがAIであることを証明する手立ては、わたしにはない。けれど、わたしという存在の異常性を証明する手段はある」

 そう言うと彼女は立ち上がった。触れていた手が離れて、消失の記憶が消えそうになったから、慌てて彼女の手を掴んだ。

 ハクアは僕と手を繋いだまま学習机に歩み寄り、ペン立てに入っているカッターナイフを片手で取った。カチカチカチと音を立ててカッターの刃を出していく。

「何をする気? 危ないよ」

「よく見ていて」

 そしてハクアは、カッターを握った手を勢いよく動かして、銀色に光る鋭い刃先を自分の首元に突き立てた。

「ハクア!」

 突き立てた……ように見えたけれど、彼女の喉の当たりにザラザラと白い砂嵐、デジタルノイズのようなものが浮かんでいて、カッターの先端を飲み込んでいた。ハクアがそこから手を動かすと、ノイズに飲み込まれていたカッターの先端は、抉り取られたかのように綺麗になくなっていた。僕は呆然とそれを見つめる。

「わたしは、わたし自身を終わらせることができない。他にも見せる」

「い、いや、待ってよ。こんなの見せられたって」

「わたしが何なのか、というソウの質問に答えるためには、この世界の背景を、ソウに正しく理解してもらう必要がある」

 混乱する頭のまま、ハクアに手を引かれるように歩き、階段を降りて、外に出た。

 彼女の手を掴んで強引に家に連れてきた時と逆だな、なんて、考えながら。


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