ゴールデンウィークも終わり、通常の日常に戻っても、僕は高校を無断欠席していた。
だって、そうだろう。生きる意味も見いだせないままに、苦痛しか待っていない教室に行って、一体何になるというんだ。
けれど無断欠席が二日目になった日の昼、スマホにメッセージが入った。
『おーい、ずっと学校来てないけど、どうした? 具合悪いの?』
クラスメイトの
返信の必要性を感じなかったので、僕はスマホの画面をオフにした。このまま無視していれば、そのうち宮野も呆れて僕との関わりをやめるだろう。
けれどその後も宮野からのメッセージは届き続けた。
『既読スルーはさすがに傷付いちゃうよー? 病気なのか、元気なのか、とりあえずそれだけでも教えてくれない?』
『既読は付くから生存はしてるとは思うけど、あんまり返信がないと心配になっておうち突撃しちゃうぜ? 住所知らないけど!』
『今日の数学の内容、テストに出すから重要だってさ! ノート取ってるから学校きたら見せてあげるよ』
『世界史の根津センセ、今日も最高に面白かったよ。何が面白かったか気になるなら明日学校へGOだ!』
『っていうかさ、もうすぐ中間テストもあるんだけど、さすがにそろそろ学校来ないとやばくない?』
こんな感じで、一度たりとも返信をしない僕に対し、飽きもせず毎日二、三通のメッセージを送り続けて来る。こんな不愛想な僕を構って何が楽しいのだろうか。
さすがに返信しなくてはと思わせたのは、無断欠席が一週間になった日のメッセージだった。
『担任が如月くんのことをめっちゃ心配してて、近々家に様子見に行くって言ってた。先生にお願いして、自分もついてっちゃうことにしたよ』
面倒くさい。黙って退学にでもしてくれればいいのに。とはいえ本当に退学になれば父親にも連絡が行くだろうし、その後の説明や弁解を考えるとそれ以上の憂鬱な未来が待っていることは想像に難くない。僕は、ハクアとの静かで穏やかな日々を送りたいだけなのに。
ため息をつきながら僕はスマホのキーボードをフリックした。
『明日、学校に行きます。だからうちには来なくていいって、担任にも言っておいてください』
送ったメッセージにはすぐに既読が付き、クラッカーを鳴らす黒猫のスタンプが現れた。
『了解! 明日待ってるね! ってかクラスメイトなんだから敬語やめてよw』
スマホを学習机の上に置き、僕はハクアに声をかける。彼女は今日も、熱心にテレビを見ている。相変わらずの無表情だから、熱心にというのは僕の想像に過ぎないけれど。
「ハクア、僕は明日、高校に行くよ。もちろん食事は用意しておくから心配いらない。そこのテーブルの上に置いておくから、好きな時に食べていいよ。テレビも点けておくし、本棚の本も自由に読んでいいから、ヒマにはならないと思う」
果たして「ヒマ」という感覚がハクアに生じることはあるのだろうかと疑問に思いながらそう言うと、感情の乗らない静かな声で「わかった」とだけ返ってきた。
*
翌日、朝早く起きた僕はキッチンで二人分の朝食と、ハクアが後で食べるための昼食も用意した。朝はいつもの目玉焼きトーストで、昼はハムとレタスのサンドイッチにした。サンドイッチの皿にはラップをかける。自分の昼食用にも同じサンドイッチを作って、ラップで包んだ。
今度、電子レンジを僕の部屋に移動して、ハクアに使い方を教えるのもいいかもしれない。そうすれば作り置きの食事でも、彼女一人で温めて食べられるだろう。何かを食べるハクアを見るのは僕の少ない癒しの時間だったけれど、今日は仕方ない。
食事を乗せた皿を自室に運び、ハクアを起こして二人で朝食を済ませた後、久しぶりの制服に着替えて、僕は家を出た。いつもハクアと真夜中に外出していたせいか、朝日が皮肉なくらいに眩しく感じた。様々なものを覆い隠してくれる夜の暗闇の優しさに慣れると、光というものが暴力的なまでの正しさの押し付けのように感じてしまう。
校内に入り、騒がしい廊下を歩き、教室に入る。幾人かの視線がこちらに向けられているのを感じながら、自分の席についた。
すぐに、髪を明るく染めている男子生徒がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら僕に近付いてきた。ゴールデンウィークが始まる前に、僕を追いかけ回していた連中の一人、
「如月ぃ、随分久しぶりじゃんか。オレらとの遊びをスルーしといてよくガッコ来れたなぁ」
「あれは遊びじゃないし、迷惑だから避けただけだ。僕が気に入らないんなら近付いてこなければいいだろ」
袴田の表情が分かりやすく歪んだ。
「ああ? 調子乗ってんの? お前が可哀そうなボッチだから構ってやってんだろが。感謝しろや」
「余計なお世話だって言ってるんだよ。住み分けすることでお互いに快適に生きられるのに、それをしようとしないなんて、頭が悪いんだな」
「んだとコラ!」
袴田の右手が伸び、僕の胸元のシャツを掴んだ。まったく、面倒くさい。どうせ殴られるんだろうとため息をついたその時、近くで宮野の声がした。
「はい、そこまで! 暴力行為は停学処分に直行だよ!」
見ると、僕にしつこくメッセージを送っていた宮野
「袴田くんはもっと理性的になって。あと如月くんも言い方が悪いよ。だから相手を怒らせちゃうんだって」
「なんだよ宮野。センコーに言いつけるってか? 教師に頼るとか、小学生のガキかよ」
と、袴田は口元に嘲笑を浮かべて宮野に言う。宮野は負けじと胸を張って余裕の笑みで答えた。
「あたしは使える力はなんでも使うよ。担任だろうと教頭だろうと校長だろうとPTAの会長だろうとね。生徒会のコネを舐めない方がいいし、そうやって繋がりの力を使うのは、ガキじゃなくて大人の証だと、あたしは思うね。あとそこにいるとあたしが自分の席に座れないから、どいてくれない?」
舌打ちをして、袴田は僕のシャツを離した。宮野を睨みつけて、自分の席に戻っていく。
治安の悪いこの高校で、クラスが崩壊せずに辛うじて成り立っているのは、警察幹部の娘で生徒会副会長でもある宮野の存在に寄るところが大きいんだろう。
宮野はころりと表情を変えて、にこやかな笑顔で僕の隣に座った。そこは彼女の席だ。
「おはよう、如月くん、約束通り学校に来てくれたね。顔色も悪くないし、元気そうで嬉しいよ。君がいない間のノートはしっかり取ってあるから、必要ならいつでも言ってね」
「……ありがとう」
「ところで、どうしてあんなに休んでたの? 私生活で何か大変なことになってたりする? あたしでよければいつでも力になるから、遠慮なく頼ってよね」
「いや、ちょっと、色々あって……。宮野は、お人よしだね。いつもそんなんで疲れない?」
僕がそう言うと、宮野は笑顔をより一層輝かせた。通学路で見た朝日みたいに、眩しく感じるほどだ。
「別に疲れないよ? それに、誰にでもお人よしにしてるわけじゃないしね」
「どういうこと?」
「分からないんならいいよー、へへへっ」
予鈴が鳴り、担任教師が教室に入ってきた。その姿を見て、僕は奇妙な違和感を持つ。小声で隣の宮野に訊いた。
「若木先生、雰囲気変わった?」
「え、若木先生って誰? あれは島田先生だよ。あたしたちが二年になってからずっとこのクラスの担任だけど……休み過ぎて担任の名前忘れちゃったの?」
僕の記憶では確かに、担任は二十代の若木という、眼鏡をかけた、気弱な新任の男性教師だった。けれど、教室に入ってきたのは、小太りで眼鏡をかけていない、見覚えのない教師だ。
宮野の言葉によれば、最近担任が変わったということでもなさそうだ。不思議に思っていると、頭の中でざらざらとノイズのような音がした。少し眩暈がする。自分の記憶が曖昧になり、夢のように歪んで、ねじ曲がり、作り変えられ塗り潰されていくような感覚。
でもその感覚はすぐになくなり、僕は島田先生のことを唐突に思い出した。そうだ、確かに、四月から二年生になって、クラスの担任はこの島田先生だった。すぐに息を切らして、昼過ぎになると顔が油でてかてかと光る、少し性格が悪くて生徒から人気のない三十代の数学教師。あれ、でもそれなら、さっき思った若木先生は誰なんだ……眼鏡をかけた、気弱な――
――僕は、何を考えていたんだっけ……。忘れてしまった。