僕は連日、夜になるとハクアを外に連れ出すようになった。
今がゴールデンウィークなのは幸いだ。連休の間に二日間の平日が挟まっていたけれど、ハクアを家に置いて、行きたくもない学校に行く意義を見出せなかった僕は、その二日間を無断欠席した。日中は人に会わないようにハクアを外には出さず、テレビを見せたり本を読ませたりする。そして二十四時になると二人で外に出て、夜の散歩が始まる。
ハクアは、教えたものは次々に理解していくけれど、彼女が知らないものはまだまだそこら中に溢れている。それらを一つ一つ見つけて教えていくのは僕の新しい趣味のようになっていたし、単純に、ハクアと二人で外を歩く時間を、楽しんでもいた。
注文していたネットショップから届いた女性用の服をハクアに着せると、見た目は白亜と寸分の違いもないように見える。ただ、ハクアの普段の表情だけは相変わらず、人間味を感じられない無表情だった。マッドサイエンティストのような人が急に現れて、生前の白亜を模して作った最新鋭のアンドロイドだと言ってきたら、思わず信じてしまいそうだ。
水無月白亜は、喜怒哀楽が素直に顔に出る人だった。いや、極度の人見知りだったから、人前では感情の発露は抑えていた。僕の前でだけ、彼女は自然体な振る舞いを見せてくれた。それは、僕にだけ与えられた特権のようで嬉しかったし、僕にとってもそんな彼女の隣だけが、唯一の安らげる場所だった。
毎日のようにハクアとの夜の散歩を繰り返す中で、コンビニで美味しそうな食べ物を買って、あの川沿いで二人で食べるというのも習慣になっていた。買う物は、スイーツだったり、ホットスナックだったり、総菜パンだったり、色々だ。
普段は作り物のように表情が一切宿らないハクアも、何かを食べると決まって「おいしい」と呟くように言って、ほんのわずかな微笑みを浮かべる。それを見るのが嬉しくて、次は何を食べさせようかと考える時間も楽しんでいた。
こんな世界を「楽しんでいる」自分に驚き、呆れながらも、数年ぶりに心が温かく潤っていくのを感じていた。
記憶を失った白亜が、ハクアとして僕の前に帰ってきてくれたのではないか。その可能性を捨てたくない気持ちは、まだ持ち続けている。けれど、三年前のあの日、彼女の最期の姿を見つけたのは他ならぬ僕だし、葬儀にだって参加して、棺で穏やかに眠る白亜を見たのも確かだ。その時に感じた、喪主である彼女の父親に対する憎悪は、今も心の一部にべったりと貼り付いている。
白亜は、死んだ。この世界に絶望して、自ら命を絶った。
それは、揺るがない事実なんだ。
だから、ハクアと二人で過ごす心穏やかな時間が長くなっていくにつれ、ハクアは白亜なのだという微かな希望、あるいは「願望」が、自分の中で少しずつ薄れていっているのを感じていた。そのことに、戸惑いと、悲しみを、抱えながらも。
ゴールデンウィークの連休も最終日となる今日、昼食を終えたハクアは、クッションの上に正座してテレビの旅番組に見入っている。その姿を横目で見ながら、僕は学習机の一番上の引き出しを開けた。そこには色々な物が入っている。
海岸で見つけた真っ白な石や、遠い親戚からお土産でもらった外国の綺麗なコイン。交換せずに大事に取っておいた駄菓子の当たりクジ。白亜が昔くれた押し花の栞、手紙や年賀状。要するに、子供のころからの宝物を入れている棚だ。
その棚の中でも、小さな化粧箱に入れてひと際大切に保管しているものがあった。僕はその箱を持ち上げて、蓋をそっと開ける。
中に入っているのは、指輪だ。指輪といっても豪華な宝石が付いているようなものではなく、縁日の屋台で買ったオモチャの指輪だけれど。それでもリング部分は金属でできていて、クリスタルのような小さな透明の石が中央に飾り付けられている。
これを買ったのは、小学六年生の夏。町の神社で毎年開かれる夏祭りに白亜と二人で遊びに行くのが、小さな頃から恒例になっていた。その日も二人でお祭り会場に行き、はぐれないように手を繋ぎながら、二人で出店を見て回っていた。その時の光景や感情は、今でも鮮明に思い出せる。
それまで僕の行く先に従うままだった白亜が、途中で突然足を止めた。振り返ると、彼女は子供向けのオモチャの指輪が並べられた屋台をじっと見つめていた。店先に並んだいくつもの指輪が、祭りの照明を受けてキラキラと輝いている。
女の子はやっぱりああいうのが好きなのかな、と思いながら僕は言った。
「……気になるなら、近くで見てみる?」
「いいの? でも、蒼くんはつまらないかも」
「そんなの気にしないでよ。ほら、行こう」
「うん!」
嬉しそうに駆けていって、白亜は指輪を眺める。隣に立ってその顔を覗き込むと、たくさんの指輪のキラキラが彼女の瞳に映って、星空みたいに煌めいていた。
ひとしきり商品を見つめた後、白亜は一つの指輪を摘まみ上げた。銀色に輝く華奢なリングに、透明で小さな球状の石があしらわれている。他はリングが派手な色だったり、石が見るからにニセモノという、いかにも子供向けなオモチャっぽい物が並ぶ中で、シンプルなその指輪だけは、大人用の本物と言われても納得するような見た目だった。
「これ、きれい……」と、うっとりとした声で白亜が言う。
ここで、買ってあげるよ、なんてさらりと言えたらかっこいいのかもしれない。ちらりと値札を見たら、七百円と書いてある。
「白亜ちゃんと二人で何か食べてきなさい」と父からもらったお小遣いの千円札がポケットに入っているから買えなくはないけれど、ここで使ってしまうと二人の夕飯がなしになってしまう。それになにより、女の子に指輪をプレゼントするなんてキザっぽくて、気持ちが伝わってしまいそうなのが怖くて、恥ずかしくて、とても言い出せなかった。
白亜は指輪を眺めた後、名残惜しそうに棚に戻した。彼女がお小遣いをもらえていないのを知っていた僕は、胸がちくりと痛むのを感じた。
「……ありがと、行こっか」と白亜が言う。
「……うん」
僕はうなずくことしかできなかった。その後、少し寂しそうな微笑みを浮かべる白亜と、買った焼きそばを分けて食べた。
彼女を家まで送り別れた後、僕は走って自分の部屋に駆け込み、躊躇なく貯金箱を割った。散らばった小銭を掻き集めると、千円くらいになった。それをポケットに詰め込んで、祭り会場に駆け戻る。息を切らして指輪の屋台の前に立ち、白亜が眺めていた指輪を購入した。代金を渡すと店のおじさんはニヤリと笑い、
「さっきの嬢ちゃんにあげるんだろ? 頑張れよ、少年」
なんていうものだから、顔が熱くなるのを誤魔化せなかった。
渡そうとしたことは、何度もある。買った指輪はいつもポケットに入れていたし、喉まで声が出かかったこともしょっちゅうだ。
でもその度に、強烈な恥ずかしさと、幼なじみという関係性が変わってしまいそうな怖さで声を飲み込んでは、夜に一人で後悔する日々を繰り返した。
そんな日々の中で僕らはやがて中学生になり、白亜は帰らぬ人となり、指輪を渡せなかった後悔は、僕の心に深く抉られた永遠の傷となった。
「……ハクア」
僕が名前を呼ぶと、ハクアはテレビを見つめたまま素っ気ない声で「なに」と応える。
白亜は、死んだ。死んだ人は生き返りはしない。ここにいるのは彼女じゃない。
「君に渡したいものがあるんだ」
ハクアの隣に座り、彼女の細い左腕を取って持ち上げる。
そして、陶器のように白い小指に、指輪をはめた。
白亜の指のサイズなんて知らなかったし、屋台で衝動的に買ったリングだけど、まるで初めからここにあるべき物だったように、ぴったりとハクアの指にはまった。
「これは、なに」と、いつもの調子でハクアが言う。
「これは指輪だよ。前にちょっと調べたことがあるんだけど、小指につけるのはピンキーリングっていうらしいね。指輪は、つける指によっても意味合いが違って、左手の小指は、願いを叶える力があるとか、身を守ってくれるとか、愛情を深めるとか考えられてるみたい。だから、お守りみたいなものだと思ってよ。まあ、安物なんだけどね」
ハクアは自分の左手小指にはめられた指輪を見た。手を伸ばし、窓から差し込む日差しに当てる。白銀のリングや透明な石が光を反射して、切なく煌めいた。
「……きれい」
そう言ったハクアの横顔は、あの夏祭りの時の白亜のように、優しい微笑みだった。
その表情を見つめながら、僕は、泣いてしまいそうだった。