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episode = 5; // 世界に存続する価値はあると思う?


 時計の針が日付を跨ぐくらいの真夜中に、僕はハクアを外に連れ出した。

 ずっと部屋に軟禁状態では悪く思っていたのと、彼女があまりにも様々なものを知らな過ぎるので、色々と見せながら教えたいと思ったからだ。

 ハクアの顔や姿を、白亜のことを知る知り合いが見るのはまずいけれど、これだけ遅い時間なら外を出歩いている人も少ない。念のためマスクでハクアの顔を隠して彼女の特徴的な頬の傷が隠れるようにし、二人で夜の道を歩く。日中は初夏を感じる気候になってきたけれど、五月の夜はまだ肌寒く、時折吹く風が冷たくて心地いい。

 ハクアは表情こそ変えないものの、様々なものに興味を示して、その度に僕に「あれは、なに」と静かな声で訊いてきた。

 例えば信号。横断歩道の白線。空に光る三日月や星々。電信柱とそこに貼られたポスター。遠くを走る車の音やライト。虫の声や、すれ違う野良猫。

 それらの全てをハクアは知らずに、僕はなるべく分かりやすい言葉で彼女に説明していく。見た目は生前の白亜の生き写しで中学生くらいに見えるのに、まるでつい最近生まれたばかりであるかのような世間知らずぶりだ。そのくせ言語能力に問題はなく、教えたことはすんなりと理解していく。本当に不思議な子だ。


 ハクアに色々と教えるのが楽しくて、家から少し距離のあるコンビニに連れて行った。店内は眩しいくらいの光と様々な商品で溢れていて、相変わらずハクアは表情に乏しいから僕の気のせいかもしれないけれど、陳列棚を前にして目をキラキラと輝かせているようにも見えた。

「ソウ。これは、なに」

「これは焼きそばパンだよ。ほとんどそのままの説明になっちゃうけど、コッペパンの間に焼きそばを挟んでるんだ」

「これは、なに」

「それは、ドーナツだね。ドーナツの種類の中でも、オールドファッションというものにチョコをかけたものだ」

「これは」

「それはお酒。ウイスキーっていう、アルコール度数がとても高いやつだ。未成年である僕らはまだ飲めないよ」

 こんな具合に、目に映るもの全ての正体を知らなければ気が済まないかのようにハクアは質問し、それら全てに僕は丁寧な説明で返した。店内には僕らの他にもちらほらとお客さんがいるけれど、商品を一つ一つ解説していく二人組は一体どんなふうに思われただろうか。

 ハクアが特別な関心を見せたのは、アイスのコーナーだ。冷凍ケースの前で足を止めた彼女は、その中に並べられた色とりどりのパッケージを眺めた。

「それはアイスだよ。えっと、冷たくて甘い、お菓子かな。確か、乳固形分の量でアイスクリームとかラクトアイスとか氷菓とか、呼び方が変わるんだ」

 僕の話を聞いているのかいないのか、ハクアは静止して、ある一点をじっと見つめている。その視線を辿ると、「パピコ」と印字されたチョココーヒー味のチューブ型氷菓に行き着いた。

「……これが気になるの? 食べてみる?」

 ハクアが顔を上げ、僕を見た。声は届いてはいたようだ。静かに見つめてくるだけで肯定のリアクションはないけれど、否定もしていないので、僕はパピコの袋を一つ掴んで、レジに向かった。

 会計後、店を出て、少し歩く。コンビニの近くには小さな川が流れていて、川沿いは遊歩道として歩けるようになっている。僕は昔からここの景色や、水が流れる音が好きだった。真夜中の今は暗いけど、近くの車道に設置された照明で辛うじて周りは見える。川は墨汁のように黒く滑らかに流れ、涼やかな水音が聞こえてくる。

 川の方に向かって下る芝生の坂道に腰を下ろして、隣にハクアを座らせ、さっきコンビニで買ったパピコを半分に分けて渡した。赤子のように何も知らない彼女は、僕の挙動を見様見真似で渡された容器の先端を切り取り、そこに詰まっているアイスを齧って食べた。そういえば、この先端部分の正式名称はない、というのを最近何かで見た。

 数年前この場所で、小学生の白亜と、今と同じように二人並んで座り、アイスを分け合った日を思い出す。彼女はこう言っていた。

(パピコはここがおいしいんだよね。なんか、特別な感じする。パピコの“アレ”って呼んでるけど、本当は何ていうんだろう)

 その声も、嬉しそうな横顔も、その日の風の匂いも、鮮明に覚えている。二人で分けられるこのアイスは、白亜のお気に入りだった。特にチョココーヒー味が好きで、買おうとしたお店で見つけられない時は露骨にしょんぼりしていた。

 ハクアがこのアイスに特別な反応をしたのは、偶然なのだろうか。僕はまたハクアの中に、白亜の存在を探してしまう。

 “アレ”の中身を食べたハクアが、またほんのわずかな変化で、柔らかな表情をした。

「……おいしい。つめたくて、あまい」

「うん、そうだね」

 ハクアがおいしいという時、胸の中が温かくなるのを感じる。修復不可能なまでひび割れ砕けた心に、優しい液体が満ちていくような感覚。

「……戻ってきてくれて、ありがとう、白亜」

「わたしはどこにも行っていない」

 ハクアのそっけない言葉にも、僕は微笑む。

「そうだね。でも、ありがとう」

 しばらく黙って二人でアイスを食べていると、ふと、ハクアが零すように言った。

「……ヒトは、殺し合うのに、おいしいものを沢山知っている」

 さきほど見せた柔らかな微笑みはなくなっていた。日中にハクアがテレビで見ていた戦争の映像を、僕は思い出す。あの陰惨な光景が、ハクアの中にも残っているのだろうか。闇を湛える川面を見つめながら、彼女は続けた。

「色んなものがいつでも手に入って、知識も技術もあって、群れも作れて、失敗を記録して継承していけるのに、ヒトの世界に悲劇が尽きないのは、なぜ」

 僕は少し考えた後、ゆっくりと言葉を選びながら答える。

「便利で、満たされていて、群れになっていることが、幸福とは限らないから……かな。必要最低限の衣食住が整っていても、持て余すくらいのお金を持っていても、多くの人から称賛されても、人間は満足しないんだ。持っていても、もっと欲しい。違うもの、新しいものも欲しい……って感じで。もちろん、色んな人がいるから、最低限で満足して幸せに生きる人もいるんだろうけど、人間という生物全体で見たら、飽くなき欲求っていうのはもう遺伝子レベルで組み込まれていて、それが良くも悪くも人間の発展と繁栄の要因になったんじゃないかな」

「他者を傷付けても、自分の住む星を破壊することになっても、それでも、もっと欲しいの?」

「……それを直接望んでいるわけじゃないけど、欲望を追い求めた結果、そうなってしまっているということは、あるだろうね……」

 僕の言葉を聞いて、ハクアは何も言わずにアイスを口にした。僕もチューブを握り、溶け始めているアイスを飲み込む。

 少しして、ハクアが言った。

「ソウも、他者を傷付けても、欲しいものが、ある?」

 僕は考える。いや、考えるまでもなく、答えはすぐに出た。

「……そうだね。あるよ」

 自分よりも、他人の命よりも、世界の全てよりも大切なものを、時に人は心の中に持ってしまう。それは僕にとって、白亜という存在だった。

 それなのに、かつて僕の周囲の世界は、白亜を傷付け、追い詰め、そして僕から白亜を永遠に奪った。

 もし彼女が本当に帰ってくるのなら、それ以外の全てが悲劇の果てに滅んでしまっても構わない。そういう歪んだ欲望を、叶うことのない危うい願いを、僕は病巣のように抱え続けている。

「人間は善性だけじゃない。悪意を持って他者を傷付けたり、望んで環境を破壊したりすることもある。そういうことを、罪悪感も持たずに、当たり前のようにやってしまえる人――無自覚の加害者というものが、悲しいけれど世界には確かに存在するんだ。だから、悲劇は尽きないのかもしれないね」

「ソウは、悲劇の尽きないこの世界に、存続する価値はあると思う?」

 先ほどと同じ調子で、ハクアが訊いた。僕は考える。今度はすぐには答えは出なかった。

「……今の僕には、分からないよ。僕はこの残酷な世界が嫌いだし、憎んでもいるけど、それは世界の一面でしかないんだ。優しい人だっているし、幸せな人だっている。それくらい僕だって知ってる。僕個人の考えで、この世界に価値はないと断じたら、それこそさっき言った無自覚の加害者に僕がなってしまう。だから、価値っていうのは相対的で、絶対的な判断はできないんだと思う」

「そう。難しいね」

「うん、難しいよ」

 僕は、白亜がいなくなった世界の価値について考えながら、彼女が好きだったアイスを食べ終えた。

 夜は静かに世界を覆っていた。


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