白亜の、夢を見た。
家が近かった僕と白亜は、物心ついた頃にはもう一緒にいて、毎日のように二人で遊んでいた。
色白で、小動物みたいに小柄で、そんな見た目の通りに臆病で引っ込み思案。でもそれは彼女の優しさから来る性格だった。
白亜は誰かが傷付いたり悲しんでいたりするのを見るのがとてもつらいようだった。幼い頃なんかは、近くで誰かが転んで泣くだけで、一緒になって泣いてしまうような子だった。
そんな性格だから、自分のせいで誰かが傷付いたり不利益を被るようなことを何よりも恐れ、そのせいで発言や行動も自然と控えめになっていく。
彼女の母はそんな娘をとても心配していて、よく僕に「蒼くん、白亜のことをお願いね」と言っていた。だから、というわけでもないけれど、僕は幼馴染として、白亜の臨時保護者のような気持ちで、彼女を見守り、助けてきた。白亜の不器用なまでの優しさに付け入り、利用しようとする奴らが、たまにいるから。
白亜の母親が病気で亡くなった時、僕たちはまだ六歳だった。誰よりも悲しんでいるだろう白亜は、葬儀の最中も静かに唇を噛んで涙をこらえているようだった。きっとこんな時でも、自分が泣きわめくことで周りに迷惑をかけることを怖れて我慢していたんだろう。自分に母親がいたという記憶すら持たない僕にとっても、白亜の母は「理想の母親」みたいな存在だったから、葬儀が終わって白亜と二人きりになった時、僕は大声で泣いた。そんな僕を見て、白亜もようやく堰を切ったように泣きじゃくった。僕の父が心配して探しに来た頃には、二人とも泣き過ぎて声も出せなくなっていた。
母を喪い、白亜を守る人が一人(でもその一人は彼女にとってとても大きな一人)減った世界で、僕はこれまで以上に白亜を大切にしていこうと心に決めた。
でも、この世界の残酷性は、僕一人で彼女を守り切れるような生易しいものではなくて――
目覚めると、涙が流れていた。
夢の余韻が残る中で、今僕が置かれている状況を思い出すのに、少し時間が必要だった。
涙を拭い、布団から上半身を起き上がらせて、昨夜並べたもう一つの布団の方を見る。ハクアは静かに眠っていて、目覚めても彼女が存在していることに、少しほっとした。
こうしてみると、本当に白亜が帰ってきたような気がする。でもそうじゃないことは、昨日のやり取りでよく分かっている。それならハクアは、一体何者なんだろう――。
そこまで考えて僕は首を横に振った。考えるのはやめよう。考えれば考えるほど、白亜の存在が遠ざかってしまうように感じたから。だから僕は、これからのことに思考を切り替えた。
この部屋で彼女を匿って生きていく上で、差し当たってまず必要なものは、彼女の服や下着だ。僕の服や男物の下着をいつまでも履かせるわけにもいかない。とはいえ僕が一人でショップに行って女物の服や下着を買い揃えるのも考えられないから、スマホで通販サイトを開いた。適当に見繕ってカートに入れていき、購入手続きに進む。白いワンピースや柔らかそうなチュニック、長めのスカートやキュロット。購入商品一覧に並んだ画像を見て、白亜が生前に着ていたような服を無意識に選んでいたことに気付いた。これもまた、僕の願望と未練の表出なんだろうな、と思う。
支払いを終えると、ハクアがゆっくりとした動きで起き上がった。
「おはよう、ハクア。よく眠れたみたいだね」
「キサラギ、ソウ」
「僕のことはフルネームじゃなくて、蒼って呼んでよ」
「ソウ」
そしてハクアは、朝の何気ない挨拶のように、こう言った。
「わたしを、殺して」
心臓にヒビが入ったような痛みが走る。うつむいて、ゆっくりと感情を飲み込んでから、優しい声で話す。
「だから、そんなことはしないよ……。朝食にしようか。ちょっと待ってて。簡単に作ってくるから」
一階に下りて、キッチンで朝食を作る。トースターで食パンを軽く焼いて、卵を割ってフライパンで目玉焼きにする。皿に置いた食パンの上に目玉焼きを乗せ、塩コショウを振って、完成。簡単すぎるけれど、毎日ルーティンのように作っている料理だ。二人分を作るのはこれが初めてだけれど。
自室に戻り、二つの皿をテーブルに置いた。人形のように静止していたハクアを促し、向き合って座る。
「これは、なに」
昨日と同じ調子で、皿の上のものを見ながらハクアが訊いた。
「これも知らないのか……。えっと、食パンの上に目玉焼きを乗せただけなんだけど、これの料理名ってあるのかな」
「ショクパン?」
「うーん、確か、主食用のパンの略だったかな」
「パン?」
ハクアのものの知らなさに驚きつつ、少しずつ教えていった。最終的に、「小麦粉を水で練ったものをイースト菌で醗酵後に焼成した食品。その上に、鶏という鳥類のメスが体内で生成して放出した殻に包まれた球形の物体をフライパンという調理器具で熱したものを乗せた簡単な料理」という、食欲を失いそうな説明にまで至った。
理解してくれたか分からないけれど、ハクアはその料理を見て「熱い?」と訊いた。
僕は思わず笑ってしまう。昨日のカップラーメンが熱かったから、温度を気にしているのだろう。
「焼きたては熱かったけど、色々説明しているうちにもうとっくに冷めたと思うよ。ほら、食べよう」
手本を示すように両手で食パンを持ち、かぶりついて、咀嚼する。僕を見ていたハクアも、真似をするようにパンを持ち上げて、一口齧りついた。しばらくモグモグと顎を動かした後、喉の動きで飲み込んだのが分かった。
「……おいしい」と、また見落としそうなくらいの僅かな変化で口角を柔らかく上げて、ハクアは言った。
「ははっ、よかった」
こんな風に自然に笑ったのなんて、三年前に白亜が死んでから、初めてかもしれない。そんなことを考えながら、静かにパンを齧った。
*
ハクアをこの狭い部屋に閉じ込めているような状況を悪いと思いつつ、家の中を自由に歩かせて、いつ帰ってくるか分からない僕の父と鉢合わせさせるわけにもいかない。彼女がヒマにならないように、部屋にある小さなテレビをつけて、本棚の文庫本も好きに読んでいいと告げ、食料品を買うために僕は外に出た。
長距離トラックの運転手をしている父は、滅多に家に帰ってこない。もう年齢的にもそれで寂しいとは思わないし、生活費は定期的に僕の口座に入れてくれるから、特に困ることはない。けれど時折思い出したように、連絡もなくふらっと帰ってくるから、やはりハクアを部屋から出すのは避けたいところだ。
スーパーで数日分の食料品や消耗品を買い込み、帰宅して冷蔵庫などにしまった後、急いで部屋に戻る。
「ただいま」
階段を駆け上がったことで息を切らしてそう言うと、ハクアはテレビに釘付けになっていた。適当につけておいた料理番組はいつの間にかニュースに変わっており、外国で続いている戦争が開始から四年目に入ったこと、両国でのこれまでの死者数が百万人に達したことなどを、男性キャスターが淡々とした口調で報じている。映像が切り替わると、爆撃により倒壊した病院や学校などの凄惨な光景と、そこで血塗れになって泣く子供や、家族を失って嘆く老婆、虚ろな表情の兵士たちが、入れ替わり映されていく。
僕たちが今生きている同じ星の上で、現在進行形で起こっている惨劇。きっと目を背けてはいけないのだろうけれど、見ていて気持ちが沈んでしまう内容だ。僕はリモコンを持ち、テレビの電源をオフにした。
「ソウ」
暗くなった画面を見つめたまま、ハクアが変わらない調子の声で言う。
「どうしてヒトは殺し合うの?」
「……僕にも、分からないよ。きっと、多くの人は、それを望んでいないはずなのにね」
「望んでいないのに殺し合うの?」
「戦争なんて、一部の支配者の感情とか、戦争で得をする人の欲で動いてるんだと思うよ。そういう人は戦場には立たずに安全な場所にいて、死にたくない人、殺したくない人を巧妙に扇動して、殺し合いをさせてるんだと、僕は思ってる」
ハクアは何も言わず、映像の消えたテレビをじっと見つめていた。