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episode = 3; // 白亜とハクア


 キッチンで熱い紅茶を二人分用意して、家の二階にある僕の自室に白亜を連れていった。

 部屋の中央にある小さなテーブルに紅茶のカップを置き、フローリングの上に直で座る。入り口で立ったまま動かない彼女に、部屋で唯一のクッションを指さして、そこに座るように言うと、ようやく彼女は動いてくれた。

 テーブルを挟んで、白亜と向かい合う。シャワーで汚れを落として中学のジャージを着た彼女は、三年前の中学生だった頃とまったく変わっていなくて、心臓の辺りが熱と痛みで複雑に軋むのを感じた。白亜は差し出されたマグカップを両手で包むように持ち、表情のない顔でそれを眺めている。

 白亜にとって久しぶりに入る僕の部屋に、何かしらの反応――例えば、懐かしい、とか、変わってないね、とか――を期待したけれど、そういった感情は残念だけれど読み取れなかった。

「……じゃあ、色々話そうか。さっきも言ったけど、君はどう見ても、僕の知っている幼馴染の女の子、水無月白亜だ。その顔も、背丈も、髪型や髪の長さも、ホクロの位置も、頬の傷痕も、白亜とまったく同じ。でも、白亜は三年前に死んでいるし、君もそうじゃないと言う。じゃあ、君は誰なんだ?」

 白亜はカップから視線を上げ、僕を見る。……いや、僕を見ているようで、焦点は合っていないような感じだ。僕がいる方向を向いているだけで、どこか遠くの虚空をぼんやりと見つめているような顔。

 小さく口を動かして、彼女は答えた。

「わたしという個体を示す、固有の名称はありません」

「えっと……僕は君が、記憶を失った白亜だと考えているんだけど、違うの?」

「違います」

 感情のこもらない短い否定の言葉に、僕は自分のカップに視線を落とし、小さくため息をついた。

 目の前の少女は、やはりどう見ても白亜の「見た目」をしている。でも、何だろう、この違和感は。

 彼女の言葉や話し方、挙動は、白亜ではないと分かってしまう。それどころか、まるで、人間ではない何かが、白亜の外側を被って行動しているような印象。なぜ。どうして。疑問は一つも解消していない。

「君が白亜じゃないのなら、僕は君のことを、なんて呼べばいいんだろう」

「その必要があるのであれば、好きなように呼んでください」

「……じゃあ、とりあえず、君のことは『ハクア』と呼ぶよ。漢字の白亜じゃない、カタカナのハクアだ」

 この子が白亜でないのなら、カタカナとはいえ彼女と同じ音で呼ぶことに少なからぬ後ろめたさを感じるけれど、この子が白亜であるという可能性を完全に捨て去ることも、僕にはできなかった。だから、惨めな僕の願望と未練が入り混じった命名だ。

「ハクア」

 と、僕が付けた名を、彼女は繰り返した。心なしか、生気もなく濁っていた彼女の瞳に、微かだけれど光が宿ったような気がした。

 白亜の姿を持ったハクア。彼女が何者なのか、どんな存在なのか、確かめたい気持ちはある。これまでの問答から、僕が質問をすれば答えてくれる予感もある。今も、問いただすための言葉が、喉まで出かかっている。君は何者なのか。なぜあの廃屋にいたのか。どうして白亜と同じ外見なのか。

 でも、それをはっきりさせてしまえば、彼女が白亜ではないということが突き付けられてしまう。

 三年前、何よりも大切に想っていた彼女を喪って、そこから死ぬよりもつらい日々を送ってきた。生きる理由を失くして、自分という命の根幹がごっそりと抉り取られ、抜け殻のように生きてきた。そして今日、あの倉庫の隅でハクアを見つけ、また君に会えたのだという喜びや、自分の中に湧き上がる力を、確かに感じた。

 弱い僕は、その希望を失いたくないと思ってしまう。目の前の不思議な少女が、記憶を失った白亜であるという可能性を、心の中に持ち続けていたいと思ってしまう。それは、いけないことだろうか。

 だから僕は、彼女の正体を探るための言葉を飲み込んで、胸の奥底にしまい込んだ。

「……もう、夜の八時だね。お腹は空かない?」

「わたしに空腹という症状は発生しません」

「ねえ、ハクア、お願いがあるんだ」

「なんでしょうか」

「敬語をやめてほしい。僕の友達のように、幼馴染の女の子のように、話してほしい。……できる?」

「わかった。やってみる」

 無茶な要望がすんなりと聞き入れられて、少し驚いた。相変わらず表情はないけれど、話し方が変わるだけで、本当に白亜が帰ってきてくれたような気持ちが強くなる。自分も、彼女をも騙しているような気持ちで胸が少し痛むけれど、白亜が死んだ時の痛みに比べたらなんということはない。

「……ありがとう。ちょっと食べ物を取ってくるから、待っててくれるかな。君も何か食べた方がいいよ」

「うん」

 数分後、お湯を入れただけのカップラーメンを二つ持って、僕は自室に戻った。また彼女がいなくなっている想像をして焦ったけれど、少しも姿勢を変えないまま、ハクアは待ってくれていた。

「こんなものしかなくて、ごめん。父親は今も、ほとんど家にいなくてさ」

 目の前に置かれた湯気を立てるカップを見て、ハクアは静かな声で言った。

「これは、なに?」

「カップラーメンだよ。え、知らないの?」

「知らない」

 僕は白亜と二人でカップラーメンを食べたことがある。おいしいねと小さく笑う彼女の顔を、今でもはっきり覚えている。こんな所でも、白亜とハクアの違いを見せつけられてしまう。

「……えっと、スープの中に麺が入ってるから、それを箸ですくって食べるんだよ。こうやって」

 彼女に教えるように、箸を持ってカップから麺を持ち上げ、何度か息を吹きかけてから口に運び、啜って見せた。ハクアは僕の真似をして箸を持ち、危なっかしい手つきで麺を数本すくうと、そのまま口に含んだ。すぐに彼女の体が小さくピクンと跳ねるのが見えた。

「あふい」

 麺を口に入れたまま喋ったので聞き取りにくかったが、きっと「熱い」と言ったんだろう。

「あ、ごめん、そういうのも教えた方がよかったのか。そう、熱湯を入れて作ってるから、熱いんだよ。息を吹きかけたりして、少し冷ましてから食べるといい」

 僕が教えると、ハクアは素直に実行する。慎重に五回ほど小さく息を吹きかけ、再び口に入れた。今度は熱くなかったのか、音を立てずに啜り、静かに咀嚼している。しばらくして、彼女は零れ落ちるような声で言った。

「……おいしい」

 うつむいているから表情ははっきりとは見えないけれど、ほんの少しだけ、注視していなければ見逃してしまいそうなほどの微かな変化で、ハクアが微笑んでいるように感じた。

 ハクアを見て、「人間ではない何かが、白亜の外側を被って行動している」なんて感じた少し前の自分を反省した。熱い食べ物を口にいれたら熱がって、それがおいしければおいしいと言って微笑む。そんなの、いたって普通の人間じゃないか。彼女に対して自分の心の隅で持ち続けていたわずかな疑心や警戒が、今の光景で綺麗に霧散したのを感じた。

 僕たちはしばらく黙って、カップラーメンだけの質素な、だけどどこか心が温まるような食事の時間を過ごした。


 夜、使われていない布団を引っ張り出してきて、自分の布団と距離を開けて並べ、そこにハクアを寝かせた。

 彼女ははじめ、シャワーや食事を勧めた時のように「睡眠は必要ない」といったようなことを言っていたけれど、布団に入れて部屋を暗くしたら、しばらくして静かな寝息が聞こえてきた。

 常夜灯の弱々しい明かりの中、まるで幽霊のように白いハクアの横顔を見つめながら、僕は考える。これからどうすべきなのか。

 水無月白亜が死んだ――正確には、自殺した――という事実は、この町内一帯や、当時の中学のクラスメイトやその親、教師たちにも知れ渡っていることだ。当然、僕の父親や、白亜自身の父親だって知っている。だから、白亜に瓜二つなハクアを、日中の明るいうちに外に連れ出すのは危険だ。どんな騒ぎになるか分からない。

 基本はこの部屋に匿って、もし連れ出す必要があるのなら夜がいいだろう。

 この世界で僕だけが、ハクアの存在を知っている。それは、僕から白亜を奪ったこの世界への小さな報復のようで、少しだけ、胸がすく思いがした。


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