信じられない気持ちで、僕は少女の顔に手を伸ばしていく。指先までもが震えている。
今僕の目の前で仰向けで眠っている少女は、間違いなく、僕の幼馴染の
でも、だからこそ、この状況が信じられない。彼女は三年前の冬、確かに死んだんだ。
目の前で眠る白亜は、亡霊なのかと思った。この世への怨みや未練を残す魂が幽体となって現れるという話は、現実では知らないが創作ではよくあることだ。あるいは、僕の壊れた頭が生み出した幻覚か。だから僕は右手の指で、恐る恐る彼女の頬に触れてみた。指先がそれをすり抜けるようなことはなく、人肌の弾力や、血が通っている生命の温もりまで感じられた。
指先だけではなく、掌で彼女の頬をそっと包むように優しく触れると、右手の感触は紛れもない命の存在を僕に伝えてくる。混乱しながらも胸の奥や目頭が熱くなり、涙で視界が滲んだ。
一体、どうなっている。意味が分からない。でもその謎を解く方法は簡単だ。白亜を起こして本人の口から聞けばいいだけの話だから。
僕は彼女の肩に触れ、優しく揺らしながら声をかけた。
「白亜。ねえ、起きて。何がどうなってるの。どうしてこんな場所で寝てるんだよ」
もう言葉を交わすことは永遠にないと思っていた彼女が、こうしてまた触れ合える距離にいる。その事実が、否応なく心を熱くしていく。
静かに眠っていた白亜の眉がピクリと動き、瞼がゆっくりと開いていく。
「白亜! 僕だよ、
寝ぼけているのか、目を開けた彼女はぼんやりと天井を眺めた後、両手を地面につけて緩慢な動きで上半身を起き上がらせた。
「……白亜?」と僕はもう一度名前を呼んだ。
様子がおかしい。起き上がった彼女は、その体勢のまま動かない。俯いて流れた髪が彼女の顔を隠しているから、表情も伺えない。いや、幼馴染とはいえさすがに寝起きを共にしたことはないから、目覚めたばかりの白亜はいつもこんな様子なのかもしれないけれど。
「ねえ、白亜、大丈夫? どこかつらいの? 話はできる?」
ようやく彼女は顔を上げ、真っ直ぐに僕を見た。唇が小さく開き、何かを話そうとするのが分かり、ほっとする。けれど、その懐かしく、愛しい声で発せられた言葉は、余計に僕を混乱させるものだった。
「あなたは、誰ですか?」
「分からないの? 蒼だよ。如月蒼。君の家の近所に住んでて、幼馴染の……。君は、白亜だよね?」
「わたしは、ハクアという存在ではありません」
もしかして、記憶喪失というものなのだろうか。だって目の前の少女は、どこからどう見たって水無月白亜だ。世界には瓜二つな人間が三人はいるというのを聞いたことはあるけれど、他人の空似だとしても、頬の傷跡までまったく同じなんてことがあるだろうか。それなら、死んだと思っていた白亜が、実は記憶を失って生きていたという方が遥かに現実的だ。
「キサラギ、ソウ」
未だどこか虚ろな表情のまま、白亜が呟くように僕の名前を呼んだ。
「うん。僕は如月蒼だよ。思い出した?」
「あなたに、お願いがあります」
「うん、何でも言って」
「わたしを、殺してください」
その言葉は、白亜との再会で浮かれていた僕の心を砕くのに、それ以上ないくらい適切なものだった。
――私を、殺してよ、蒼くん。
かつて白亜が言ったその言葉を、叶えられるはずもない願いを、彼女が死んだ後でも、忘れたことなんて一日たりともなかった。
粉々に崩れ落ちそうになる精神をなんとか繋ぎ止めて、無理矢理に微笑みを作って、優しい声を出す。
「……何言ってるんだよ。そんなの、できるわけないだろ? きっと、ちょっと混乱してるんだよ。こんな暗くて湿った所にいたら気持ちも晴れないから、移動しよう。話したいことも沢山あるしね」
「わたしを、連れていくんですか?」
「そうだよ。僕は君に言ってるんだ」
「拒否します。わたしの存在は、あなたにとって不都合です」
感情を感じられない言葉で拒絶されたことにショックを受けたけれど、そんなことではめげていられない。僕は一度君を、永遠に失ったんだ。そのことが僕をどれだけ苦しめたか、君は知らないだろう。
僕は彼女の手首を掴んで立ち上がる。力を入れて腕を引っ張ると、思ったよりも簡単に白亜は立ってくれた。
「君の拒否を、僕は拒否する。君が何と言おうと、僕は君を連れていく。今は黙って従ってくれ」
腕を引いて倉庫の出口に向かい歩き出すと、すんなりと彼女はついてきた。本当に黙って従ってくれている。
相変わらず、驚くくらい細い腕だ。顔も体も背丈も、三年前と変わっていない。やっぱり君は、白亜だ。彼女にまた触れていられるという事実が、心の奥から枯れかけていた熱を生み出して、心臓を強く叩いている。君がいるだけで、僕は強くなれる。
もう、絶対に、この手を離すものか。
そう心に決めて、倉庫を出た。いつの間にか雨は止んでいて、空はもう暗くなっていた。
*
僕は白亜を、まっすぐに自分の家に連れて行った。彼女の家に連れていくという選択は初めからない。白亜の父親が彼女にしたことを、僕はよく知っている。
ボロ布を纏う白亜は靴も履いておらず、雨上がりの道を歩いたせいで足は汚れ、腕や顔も所々に煤や土埃のようなものが付着していた。だから僕は、白亜の腕を引いて誰もいない自宅の廊下を歩き、洗面所に彼女を立たせた。
「とりあえず、シャワーを浴びようか。熱いシャワーでさっぱりして、気持ちを落ち着かせよう。色々話すのは、その後だ」
「シャワー」
彼女は表情を変えないまま、僕の言った単語をオウム返しした。
「必要性を感じません」
「いや、必要なんだ。君は今、結構汚れている。その間に僕は、着替えを用意しておくよ。……女物の服はないけど、着れそうな物を探すから」
「汚れている」
またオウム返しをして、白亜は洗面台の鏡を見た。そこに映る自分の顔を、じっと眺めている。
「安物だけど、シャンプーとかボディソープとかは好きに使っていいよ。タオルはここに置いておく。ドライヤーはあれを使って。じゃあ、また後でね」
早口でそう言って、僕は急いで洗面所を出て扉を閉めた。白亜がうちの風呂を使ったことは何度かあるけれど、それは僕たちがまだ小学校低学年の頃だ。その時よりも成長した彼女がここにいると思うと、脱衣所という同じ空間にいることに背徳のような焦りを感じた。
部屋を移動して、タンスを漁る。父と僕、男二人しか住んでいない家だ。母は僕が幼少の頃に亡くなっているから、さっき白亜に言った通り女物の服は一着もない。ひとしきり悩んだ後、クリーニングから受け取ってそのまま綺麗に保管してあった僕の中学時代のジャージを選んだ。女性用の下着ももちろんあるわけがなくて、未開封のトランクスがあったからパッケージごとそれを掴んだ。あまり長く悩んでいると、シャワーを終えた白亜を着替えがないまま待たせてしまうことになる。
急いで洗面所の前に戻り、扉の向こうに声をかけた。
「白亜、ごめん、待たせたかな。着替えを持ってきたよ」
シャワーの水音は聞こえないから浴び終わったのだろうけれど、返事はない。
「……白亜? そこにいるんだよね?」
扉をノックしても、何の返事もない。途端に焦りと不安が僕を覆い尽くす。
白亜は三年前に死んだ。それは確かだ。じゃあ、僕がさっき連れてきた彼女はいったい何なんだ。本当に存在していたのか。やはり僕の頭が壊れていて、幻を視ていたんじゃないのか。この扉の向こうには誰もいなくて、僕は幻覚に向かって独りで話していた哀れな男なんじゃないのか。
僕は、また、君を失うのか。
「……白亜、白亜!」
絶望的な焦燥が僕を突き動かし、衝動的に扉を開けた。
そこには裸のまま鏡を見つめる彼女が立っていて、
「うわあ!」
驚いた僕は慌てて背を向け、謝罪する。
「ごめん! ほとんど見てないから! というかいるんなら返事してくれよ!」
「わたしは、ハクアという存在ではありません」
「君はどこからどう見ても白亜だよ……。いや、まずは、これを着てくれ。男物で悪いけど、全部綺麗な状態だから」
背を向けたまましゃがんで床に着替えを置き、部屋を出る。
「着終わったら教えて」
扉越しにそう伝えると、数分後、律儀に「終わりました」と返事があった。僕は安堵と疲れのため息を吐く。