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episode = 1; // 世界はきっと、僕らを憎んでいる


 絶望に色があるのだとしたら、それはきっとこんな、この世の終わりみたいに濁った空の色なのかもしれない。

 僕は高校の近くの薄汚れた裏道で、打ち捨てられた掃除用具入れに背中を預けて乱れた息を整えながら、今にも雨が降り出しそうな夕方の空を見上げ、そんなことを考えていた。

 そこに救いなんてあるはずもないのに、いや、本当の救いなんてものはどこにもあるはずがないのに、ふと気付くとどこかにそれを探し求めてしまう。けれど、今日も空はこんなにも、僕らに絶望し、突き放している。

「キーサラーギくぅーん! どーこに隠れてるのかなぁ? もっと俺たちと遊ぼうよぉ!」

 何が楽しいのか知らないが、僕を追い廻しているクラスメイトの男たちの嘲笑の交じる声が聞こえた。僕は、空にも見つからないように小さくため息を吐くと、彼らに殴打されて痛む左腕を右手で押さえながら、再び走り出した。

 別に、人から嫌われることは一向に構わない。僕も、彼らの加虐欲を煽るような生き方をしているのであろうという自覚はある。何物にも興味を示さず、気力もなく、逆らわず、空気が日常に落とした薄い影のように、僕は自分という存在を無意味に継続させている。

 僕を嫌いであるならば、関わらずにそっと遠ざけてくれていればいいのに。何故わざわざ嫌いな人間に近寄っていこうとするのだろうか。嫌われることは構わないが、肉体的な痛みは困る。日常に支障をきたす。だから今もこうして逃げている。金曜日の放課後に、無様に息を切らして、足を引き摺りながら。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 時折、痛みの中で、この命の意味を問う。何のために生きているのか。

 肉体の苦痛は半ば強制的に、その問題に思考を向けてくる。喜びもない、希望もない、趣味も夢もない。あるのは、身体中を満たす途方もない無力感と、寂寥と後悔と自責と、世界への嫌悪だけだ。こんな人生に何の意味があろうか。

 でも、僕には、死ねない理由がある。絶望的なまでに、その理由は胸の中で、今も煌々と燃え続けている。その愛しい呪いだけが、内側から僕の心臓を突き動かし、今もこの身に血を巡らせている。

如月きさらぎィ! いい加減出てこいやオラァ!」

 先ほど身を潜ませていた辺りから、用具入れのスチール製の壁面が蹴られるような激しい音が聞こえた。追い立てられるように、僕は足を速める。

 痛みと疲れからうまく上げられなかった爪先が、道端に転がっていた端材のようなものに引っかかり、前のめりに地面に倒れ込んでしまう。すぐに両手を地に付き身体を支えると、掌には砂利が食い込む鋭い痛みが走った。

 ぽつぽつと、髪や背中や、夏の制服から飛び出た剥き出しの腕に、冷たい雫が落ちてくる。雨だ。周りの地面でしめやかに鳴っていた雨音はすぐに勢いを増し、大粒の雫がバタバタと地面を叩き始め、世界をノイズで満たしていく。

 僕は軋むような体を動かして立ち上がると、再び走り出した。この雨では、趣味の悪いクラスメイト連中も、僕を追い廻すことの楽しさよりも、体中が濡れることの不愉快の方が勝るだろう。でもそれで気を抜いて見つかってしまっては面倒なので、少しでも彼らの移動範囲から遠ざかろう。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 腕が痛む。掌が痛む。足が痛む。

 それでも、一番痛いのは身体ではない。鉛のように重く、万力で押し潰されているように痛み続けている心を、僕は惨めに引き摺って、それでも手放さないまま、生き続けている。

 激しい驟雨に打たれながら息を切らして走っていると、薄暗い路地裏の中でひと際黒々とした闇が、壁に貼りついてぽっかりと口を開けているのが見えた。足を止めてその方向をよく見ると、家屋の裏口にある倉庫の扉が開いているようだった。

 この辺りは放棄された小さな元商店街で、ほとんど誰も寄り付かない。今も人の気配はないが、家主が閉め忘れた扉を、かつてここを通った誰かが好奇心で開けたのだろうか。

 全身に纏わりつく疲労と痛みと、降り続ける雨の不快感が、僕の足をそこに向かわせた。少しだけ身を潜ませて、休憩させてもらおう――そう考えて、光の射さない闇の中に足を踏み入れていく。

 その闇に入った途端、うるさく鳴り続けていた雨の音が弱まった気がした。倉庫の中はじめじめとしており、カビたような匂いもして、ここに満ちる空気は快適とはとても言えない。当たり前だが照明は点いておらず、何があるのか、どれくらいの広さなのかも分からない。入り口近くの壁際にライトのスイッチでもないかと手探りで触ってみたが、それらしいものはなかった。

 しかたなく、手近な壁に背をつけて、ずるずると擦りながらしゃがみ、そのまま床に尻をつけた。そこでようやく、大きく息を吐く。

 まったく、散々だ。明日からはゴールデンウィークで学校がしばらく休みということだけが、今の僕に与えられた唯一のマシなことのように思える。

 鈍く痛む腕をさすりながらぼんやりしていると、次第に目が暗闇に慣れてくる。ここはかつて、酒屋の倉庫だったのだろうか。瓶ビールを入れるようなケースがいくつも積まれ、薄汚れ潰れた段ボール箱や、何に使うのか分からない麻袋のようなものなどがあちこちに散乱している。

 もしかしたら、僕を追い廻していた不良連中たちが、ここを溜まり場にしていたりするだろうか。そうであるなら、この場所に長時間留まり続けるのは良くない。暗く、逃げ場もなく、人の目もないこの狭い倉庫であいつらに見つかったらどんなことが起こるか、想像するだけでも憂鬱だ。

「……世界はきっと、僕らを憎んでる」

 ため息にも似た、かすれた声で、そう呟いた。

 この星が、生命が存在するための条件を満たしているのは、いくつもの奇跡が積み重なった結果であるらしい。それなのに、奇跡の星に住む僕ら人間は、今日も他者を傷付け、争い、奪い合っている。

 悲劇のニュースは毎日飽きることなく電波に乗って提供される。他国では終わることのない戦争が今日も続けられている。この国でも、防衛と称して殺人兵器が大量に輸入されている。

 人の営みの中で自然は破壊され、環境は汚染され、異常気象は年々激化している。

 毎日、毎時、毎分、毎秒、どこかで誰かが傷付いて、誰かが死んで、誰かが泣いている。

 僕らがいる限り、この星の上で悲しみがなくなることはない。

 世界はきっと、僕らを憎んでいる。

「いや……僕が、世界を憎んでるのかな」

 零れ落ちた声は、雨音に掻き消えていく。

 自分の命よりも、世界の全てよりも大切なものがあるということを、僕は知っている。でもこの世界は、僕からその大切なものを奪った。それも、一番最悪な方法で――

 不意に、倉庫の奥で物音がした。

 大きな音ではなく、布が擦れ合うような微かな音。それが雨音の中で異質な響きとなって僕の耳に届いた。自然に発生するような物音ではない。生物の気配だ。

 自分の全身が急にセンサーのようになって、目や耳や皮膚が、その音の方向や正体を探ろうとするのが分かった。暗闇の中では、本人の意思に関わらず神経が研ぎ澄まされるのかもしれない。

 恐らく長い間放置されている倉庫だ、ネズミや野良ネコなんかが住み着いていてもおかしくない。飢えた野良犬だったり、居眠りしている不良だったりしたら、こちらの身に危険が及ぶ可能性もある。外はまだ雨が降り続いていて、出来るならしばらくはここで身を潜めたい。だからその物音の正体とこの場の安全性を確かめるべく、僕はゆっくりと立ち上がり、音がした方にそろりと歩み寄っていく。

 汚れた段ボール箱の山に隠れるようにして、そこからそっと顔を出し、倉庫の奥を覗く。

 暗闇に慣れた目に、先ほどの物音の正体と思われるそれはすぐに見つかった。

 倉庫の隅、酒瓶のケースが乱雑に積まれている場所、その地面に、人間が一人、仰向けに横たわっていた。小柄で、黒い髪が肩の辺りまで伸びているから、少女のように見える。

 どうしてこんな所に――そう考えて、今朝のテレビで見た「殺人、死体遺棄」のニュースを思い出し、目の前の少女が既に亡くなっている可能性を思いぎょっとしたけれど、呼吸に合わせて微かに動いている体を見て、安堵した。

 全身に張り巡らされていた緊張と警戒を解いて、眠っているらしい少女に歩み寄る。家出でもしたのだろうか。近付くとその子は、まともな服装ではなく、辺りに落ちている麻袋に似たボロ布のようなものを身に纏っているのが分かった。

 不思議なのは、周りにはオレンジ色の酒瓶のケースがいくつも散らばっているけれど、少女を囲うように半径一メートルほどの範囲で、ケースが綺麗に切り取られているように見えた。まるで少女を中心とした半球状に、空間が抉り取られたかのような光景。

 何にせよ、こんな所で眠っているのは危険だ。ただでさえこの町は治安が悪く、おまけにこの近辺には今僕を探している不良連中がいる。少女を起こして、安全な所に連れて行くか、場合によっては警察への相談も必要かもしれない。面倒だな、と思いながら放っておくこともできず、声をかけようとその子のそばにしゃがみ込んだ。

 少女の顔を近くで見て、呼吸が止まった。

 全身に電流が走ったような衝撃。

 頭の中がぐちゃぐちゃになり、脳裏にはいくつもの、永遠に失われた光景が去来する。

 愛しい声が。共に過ごした日々が。優しい体温が。分け合った痛みが。彼女を追い詰めた不条理の全てが。僕の心の癒えない傷を乱暴に掻き毟り、涙のような血を流す。

 雨で湿った空気を吸い込み、震える声で、幼馴染の少女の名を呼ぶ。

白亜はくあ……」


 三年前に死んだ君が、どうして、こんな所にいるんだ。



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