〈テオ視点〉
俺が「それは、困る」と言ったら、彼女は、
「貴方が公爵を継いだからと言って、直ぐにどこかへフラフラと出て行く訳じゃないわよ、安心しなさい」
と明るく笑った。
俺が『困る』と言ったのは、頼れる人がいなくなるから……ではない。
彼女が俺の側から居なくなる事が困るんだ。
今はまだ、俺の気持ちを誰にも言う事は出来ない。その立場にないからだ。
まだ俺はただの『テオドール』
彼女は『オーネット公爵夫人』
俺達の間には見えない高ーい壁がある。
そんな事は重々承知だ。
まずは俺が変わらなければならない。
それには彼女の手伝いをしているだけではダメだ。
俺は翌日アーロンさんに頼み事をした。
「教師をつけて欲しい……ですか」
と俺の言葉を繰り返すアーロンさんに、
「はい。ステラ様のお手伝いは続けてさせていただきますが、空いている時間にもっとこの国の事、公爵として必要な知識を教わりたいので」
と俺はお願いした。
公爵としての仕事はステラ様をずっと見ていたので、流れはわかった。
でもそれだけでは全然足りない事ぐらい分かっている。
ステラ様は『ゆっくりで良いのよ。公爵になってからでも勉強は続けられるもの』と言われたが、それでは遅いのだ。
公爵を継ぐと同時に俺にはやらなければならない事がある。
その資格を得る為には、ここで頑張らなければならない。
あの人の事で迷惑をかけている俺は、今の今まで、どこか遠慮しながら生活していた。だから、教師を付けて欲しいと思いながらも言えずにいた。
これからは、図々しいと思われても良い。
俺は自分の要望を素直に伝える事にした。
「さぁ、先ずは基本的なステップから始めましょうか」
今日からダンスレッスンだ。もちろん講師はステラ様。
俺はステラ様から言われた事を忠実に再現しようと試みるのだが、なんだか上手くいかない。……ダンスって難しいんだな。
「そんなに力を入れなくても大丈夫よ。それだと一曲終わる頃にはヘトヘトになるわよ?」
とステラ様が笑う。……その笑顔は反則だ。
俺は領地で、
『貴族ってのはな、感情を顔に出しちゃならんのだとよ。怒っても、悲しくても、楽しくても、無表情なんだとさ。つまりは、腹の中で何を考えてるかわからねーちゅー事だ。怖えーなぁ』と聞いていた。
確かに、俺の父親だと言われる人物はいつも無表情で、笑顔など向けられた事はない。
俺はそれを聞いて、貴族ってつまらない生き物だな……と思ったものだ。
だが彼女は……違った。
彼女は心を許した人の前では、喜怒哀楽を表に出す。
俺の前でそれを見せてくれた時、俺もその仲間に入った様で嬉しかった。
彼女のテリトリーに入れて貰えた感覚だ。
しかし……気になる事が一つ。
彼女が俺を子ども扱いする事だ。
そりゃ……俺はまだ成人もしていないし、彼女より十も歳下だ。
彼女に比べれば、俺なんて足りないものだらけ。
だけど、絶対彼女の背中に追い付いてみせる。俺は少し焦っていた。
「痛っ!」
彼女の声にふと我に返る。
「ご、ごめんなさい!!」
「あぁ、大丈夫、大丈夫。
それより、何か別の事を考えていたでしょう?
ふふふっ。最近はテオの微妙な表情の変化にも気づく様になったんだから」
ダンス中につい考え事をしてしまった。
彼女の足を踏むなんて、申し訳なさ過ぎる。
だけど、その後に続く彼女の言葉に頬が緩みそうになる。
俺のこの表情の乏しい顔から、彼女が色々と読み取ろうとしてくれている事が嬉しかった。
「すみません。ちょっと考え事を」
「いいのよ。……そう言えば、講師の先生ね、適任の方が見つかったわ」
また彼女は改めてステップを踏みながら、そう言った。
俺が頼んでいた教師の事だろう。
「無理を言ってすみません」
俺も彼女の手を握り直し、ステップを踏みながら答えた。
「どうして謝るの?私の方こそ、こちらからテオに声をかけるべきだったって思ってるの。私の手伝いをしているだけでは公爵としてやっていくのに不安だったわよね」
「いえ!ステラ様のご指導のお陰で、仕事の流れはわかったんですが、公爵って……もっと知識が必要なんですよね?」
俺にはやるべき事が盛りだくさんだ。今からずっと徹夜で頑張ったって間に合わない。
俺に勉強を教えてくれていた家庭教師が居なくなった時には『ふーん』と思っただけだったが、今では何であの時、あの人を問い詰めて、教師に残って貰うように頼まなかったのかと後悔してしまう。
あの時から学んでいれば……彼女の背中はもっと近く感じる事が出来ただろうに。
その三日後。
俺が自分の部屋で講師を待っていると、ノックの音と共に、ステラ様が顔を覗かせた。
「テオ、お待たせ。こちらが……これから貴方を教えてくれる先生よ」
と言って後ろの男性を部屋へ招き入れる。
その男性は、俺の子どもの頃のほんの数年間、勉強を教えてくれていた、その人だった。