「パトリシア様……」
と私は名前を呼ぶも、どんな言葉を掛けたら良いのかわからず、そのままハンカチを差し出す事が精一杯だった。
無責任に『大丈夫ですよ』なんて言えやしない。
パトリシア様は目元をハンカチで拭うと、
「ごめんなさい。決心はついた筈なのに……」
とぎこちなく笑った。
私は無理をしているパトリシア様の笑顔に胸が痛くなる。
「パトリシア様のご意志を殿下はご存知なのですか?」
「いいえ。……まだ言えていないの。でも、殿下が何と言おうと側妃を持っていただくつもり。もう私に気を遣う必要はないのだと、お話するつもりなの」
「左様でございますか。……私はパトリシア様がお決めになったのなら、そのお気持ちを尊重したいと…そう思います。でも、もし……お辛い事があるのなら、その時は直ぐにでも呼んで下さいませ。私に出来る事はなんでもいたします。
それでもパトリシア様のお気持ちを慰める事が出来ぬ時には……そうですね、二人で旅行でもいたしましょうか?」
と私が微笑めば、
「ふふっ。旅行、楽しそうだわ。その時は……ステラ様に甘える事にいたします」
とパトリシア様も微笑んだ。そして、少し俯く。
「……殿下のお気持ちは、側妃の方へ移ってしまわれるのかしら……」
と呟くと、また大粒の涙を流し、その滴はパトリシアの若草色のデイドレスのスカートを色濃く変えていった。
私は思わず椅子から立ち上がり、泣いているパトリシア様の頭を包み込む様に抱き締めた。
「人の心は私にも、誰にもわかりません。でもパトリシア様を蔑ろにするような殿下ならば、捨てておしまいなさいな。その事でパトリシア様が必要以上に心を揺さぶられる事はないのですから」
と私が頭を撫でると、
パトリシア様は声を押し殺して静かに泣いた。
私は屋敷の自分の部屋でパトリシア様の事を考える。
子どもは授かり物。気持ちだけではどうする事も出来ない。
私が考え込んでいると、
『コンコンコン』とノックの音が聞こえた。
窓の外は既に暗くなりはじめている。夕食の時間なのだろうか?
「はい、どうぞ」
と答えると、扉を開けてテオが顔を出した。私の部屋にテオが来るのは珍しい。
「テオ?どうかした?もしかして、夕食だと私を呼びに来てくれたの?」
と尋ねる私に、
「いえ……。外出からお帰りの時に、元気がないように見えたので」
とテオは、少し恥ずかしそうに答えた。
心配してくれたのかしら?
「あぁ。……少し考え事をしてて。どうぞ、入ったら?」
と扉の所でモジモジしているテオに声を掛けると、テオはそっと部屋へ入って私の座る椅子の方へ近づく。
「何か、困り事ですか?」
と心配そうに彼はそう言った。
「ごめんなさいね、心配させたかしら?困り事……ではないの。人生って自分ではどうにも出来ない事があるから」
「どうにも出来ない事……ありますね。前にステラ様が言ってたでしょう?『子どもは親を選べない』って」
テオだって自分ではどうする事も出来ない事の連続だ。特に今はそれを痛感している事だろう。
「貴方にも無理をさせているわね」
私はそう言いながら窓際へ向かう。
外は日没を迎え、薄明の時間帯。所謂、マジックアワーだ。とても美しい。
その風景に私は少しうっとりする。
すると、私の横にテオが並んで、同じように窓の外を見る。
「綺麗ですね」
と言うテオに、
「綺麗ね。私、僅かなこの時間の空の色が好きなの」
と私は答えた。
「俺は……今まではこの時間が嫌いでした。日が落ちて、夜になれば家に帰らなきゃならない。あの人の愚痴を聞かなきゃならない。……まぁ、あの人が勝手に怒って勝手に喋ってるのを右から左に受け流していただけですけど」
とテオは苦笑した。
テオがアイリスさんへあまり良い感情を持っていない事は分かっている。しかし、それでも彼女はテオの母親なのだ。彼はそれをちゃんと理解して、アイリスさんの側に居た。
……テオが養子になれば私は彼の義母という立場になる訳だ。私はテオをちゃんと導いていけるのだろうか。いや、導いてみせる。公爵様に代わって。
「貴方の苦労を私は想像する事しか出来ない。私は両親と仲が良かったから、本当の意味で貴方の気持ちを理解してあげられない。
でもね、これからは貴方が道に迷いそうな時には、私が居るわ。『お義母さん』と呼べとは言わないけれど、頼って良いの」
と私は窓辺に置いていたテオの手を握った。
テオは少しビクッとするが、私にされるままになっている。力の入っていた手は少しずつ解れていった。
「……お義母さんとは呼びません」
たっぶりと間を取ってテオが言ったのはその一言。
そうよね。流石にお義母さんは図々しかったか。私も母親になれるのかと、少し嬉しかったのだが。
私はつい笑ってしまう。
「可笑しいですか?」
「あぁ、ごめんなさい。たった二ヶ月弱一緒にいただけで、母親にはなれないものね。でも、私には子どもはいないから、私にとっては貴方が我が子よ」
「……!いや、そんな意味ではなくて……でも、いや……。子ども……」
テオは私に何かを伝えたそうな、もどかしそうな表情をするが、言葉にする事が難しい様だった。
「『母と子』じゃなくて良いの。『家族』になりましょう」
と私が微笑めば、テオは少しホッとしたように。
「……はい」
と答えてくれた。