「損……はないでしょうけれど……」
と私が渋っていると、
「あなたにとって私は憎むべき存在かもしれませんが、子どもに罪はありません。
私の存在があなたをとても苦しめていた事も良くわかっております。
私はこの屋敷でディーンを偲んで生きていきたい。……ただそれだけなのです。
お互いがどんなに想い合っていたとしても、私達は結婚する事も叶いませんでした。せめて…せめて…彼の暮らしていたここで、ディーンを感じて生きていきたいのです」
とアイリスさんはまた、ハンカチを目に押し当てた。
……またなの?嘘泣きよね?涙、全然溢れてなかったけど?
それに、貴女の存在に苦しめられた覚えなんて、全くないんですけど。
貴女の存在を知ったのって数日前よ?
何だろう?しおらしい感じなのに、押しが強いこの物言い。
しかし、ここで断っても、また泣き真似をして駄々を捏ねるだけだろう。
それに、私が彼女に嫉妬していると思われているのも癪に障る。
「アイリスさん、私は貴女の存在もテオドール様の存在も最近知ったばかりなので、特に貴女達に思う所は何もありませんが、これ以上貴女とお話をしても平行線になりそうですわね。
では、こういうのはどうでしょう。
この屋敷には離れがあります。そちらでお過ごしになると言うのは。
それならば、貴女達を私の客人として宿泊させる事も可能ですし、この屋敷の使用人達の目を気にせず生活が出来る筈です。
今までお二人で暮らしてこられたのであれば、特にメイドも必要ないでしょう?
ただ、離れとはいえ少しお部屋の数は多いと思いますので、お掃除のメイドだけ寄越しますわ。食事はこちらから運ぶ事も出来ますし、アイリスさんが望むならご自分でお作りになる事も……」
と私が一つ一つ丁寧に説明していると、
「ステラさんは、私の顔も見たくないのでしょうね。
自分の夫が実は他の女性を愛していたなど……不愉快に思うのは当たり前です。
でも、私にとっては……いえ、私とディーンにとっては、あなたこそ邪魔者だったんですよ?
本当なら、テオドールの母である私が公爵夫人と呼ばれて然るべき人間なんです。その私がどうして離れなどに?あなたはこのお屋敷に住んでいるのに?」
とアイリスさんは心底不思議だと言わんばかりの顔で私を見た。
離れは私が拘って改築した、私の小さな城だ。そこを泣く泣く譲ってやると言っているのに、この態度。
……私、この人苦手かも。
「アーロン、客間を用意して」
私の後ろで控えていたアーロンは
「は?奥様、それは……!」
「いいの。彼女達は私の……実家でお世話になっていたメイドとご子息という事にしましょう。やむを得ない事情でこの屋敷に来てもらった事に……」
という私達の会話に、アイリスさんは割って入る。
「え?客間はステラさんがお使いなのでしょう?だってディーンはそう言ってたわ。公爵夫人の部屋は使わせないって。なら、私がその公爵夫人のお部屋を使わせて貰うのはどうかしら?ディーンだって私が使う方が喜ぶと思うもの」
とこれまた可愛らしく微笑んだ。
この公爵家は広い。客間ぐらい腐る程ある。別に私が客間をこの八年使っているからといって、他の客間がない訳でも、だからといって、公爵夫人用の部屋を客人に使わせる程困ってもいないのだ。
アーロンは思わず、
「先程から黙って聞いていれば!奥様に失礼な事ばかり……!」
とアイリスさんに強い口調で詰め寄る。
すると、
「そ、そんな……そんなつもりはなかったんです。ごめんなさい!」
とその綺麗な青い瞳にみるみる涙が溜まっていった。
今回は嘘泣きではないようだ。
「泣かれても……!」
とアーロンは今だ怒りを抑えきれずにいた。
「アイリスさん。確かに夫人の部屋を私は使っていません。きっと公爵様も貴女に使って貰えば本望でしょうけど、それではこの家の者達に示しがつきません。そこは理解して下さい」
と私は静かに言った。
公爵様があの部屋に私を入れなかった理由は目の前の彼女の為だろう事は容易に想像が出来る。だからといってあの部屋を『どうぞ、どうぞ』と使わせる事が出来ない事ぐらい馬鹿でも分かるだろうに。
すると、今まで黙っていたテオドール様が、
「俺は離れでも良いよ。公爵夫人の言う通りに」
と眼鏡を外しながら言った。
きっとあの眼鏡では前が見えにくいのだろう。彼の眉間のシワの理由が少しだけ理解出来た。
私は、
「では……お二人には客間を用意させていただきます。お二人は別々のお部屋で?」
とテオドール様の言葉に甘える事にした。
テオドール様がすかさず、
「この人とは別々の部屋にして貰えるとありがたい」
と言葉少なにそう言うと、アイリスさんは顔をしかめて、
「母親の事を『この人』なんて呼ばないで」
と不快そうにそう言った。
……この二人、何かあるのかしら?