「私、こちらに越してこようと思いますの!」
とアイリスさんは腰を下ろした途端に、そう話を切り出した。
「こちらに……とは?どういう事でしょう」
「先日の大雨で私のお店が被害を受けた事はご存知でしょう?パンを焼く竈も全て大木の下敷きになりました。
もうお店を続けていく事は不可能ですし、ディーンが領地に来ないのであれば私があちらで暮らしている意味はありません。
ですから、王都に越して来ようと思いまして」
と伏し目がちにアイリスさんはそう言った。そして、
「領地はディーンとの思い出が多すぎて……正直あそこに留まっている事がつらいのです」
と言いながらハンカチを目に押し当てる。
……え?涙、出てました?いつ?
「しかし、領地ならまだしも、王都で暮らすとなるとテオドール様の存在を隠しておく事が難しくなります。
十八歳になるまでは今まで通り領地で過ごしていただけないでしょうか?
もちろんお仕事をしなければ生活するのは困難でしょう。こちらからの支援だけで生活をすれば、周りからどんな目で見られるか分かりませんし。
ですので、お店の再建につきましては、こちらで費用を用意いたします。それでいかがでしょうか?」
と私は申し訳なさそうにそう答えた。
ギルバートも言っていたではないか。テオドール様の命を狙う者がいるかもしれないと。
平民のうちに万が一の事があっても、犯人の罪状は貴族を害するより罪が軽くなってしまう。
人の命は身分で区別されるべきではないのは最もなのだが、身分制度のあるこの国では、この理不尽がまかり通ってしまうのも事実だ。
「でも……もうあちらの家も引き払ってしまったので」
とアイリスさんは困ったようにそう言った。
「引き払った?持ち家でしたよね?」
「ええ。もう売り払って来ましたの」
アイリスさんの家は元々あまり裕福でなかったが、彼女のご両親が亡くなった後、公爵様が支援して家も平民のわりに良い所に住んでいたという話をギルバートから聞いていた。
と、いう事は公爵様がその家を彼女達に買い与えたという事。え?その家を?勝手に売ったの?
「さすがにご自分が売ってしまったのに、住む場所までこちらで提供するのは不可能ですね。しかし、借家であれば…」
「ですので、もうこちらでお世話になろうと思いまして」
と私の言葉を遮ってアイリスさんは微笑んだ。
「王都で……という意味ですよね?」
と尋ねる私に、
「いえ。この屋敷で、です。ディーンは生前いつも、私と暮らせたらと言っていました。……もうディーンは居ませんが、ここで暮らす事をディーンは天国で喜んでくれると思うの」
と可愛らしく微笑む彼女の顔を私は凝視してしまった。
「あの……この家の者もテオドール様の事を知りません。知っているのはごく僅か……私とギルバート、そしてここに居るアーロンだけです。ここで暮らすと言うのも些か難しいかと」
「あぁ。その事でしたら。テオドールは……ほら見せてあげて」
とアイリスさんは隣のテオドール様へそう言うと、テオドール様は面白くなさそうにポケットから眼鏡を取り出して、それを掛けた。
牛乳瓶の底の様に分厚い眼鏡は、彼の特徴的な金色の瞳をすっかり隠してしまった。
「領地でもテオドールはこうして過ごしていましたから。だって、テオドールはそっくりでしょう?ディーンに。今はちゃんとテオドールがディーンの息子だと分かる様に眼鏡を外しておいただけですわ」
と、アイリスさんは、何故か挑発的に私に微笑んだ。
……子ども産んだ方の勝ちって事?別に勝ち負けの問題じゃないけど、何となく腹が立つ。
私は彼女の隣に無言で座るテオドール様の方へと話かけた。
「テオドール様、貴方はどうお考えですか?少なくとも……今まで領地では公爵様のご子息である事はバレていないようですが、危険を冒してまでもこの王都で暮らしたいと、そうお思いでしょうか?」
と私が問えば、
「……俺は、どうでも良い」
と投げやりな答えが返ってきた。すると、
「ステラさん、テオドールは私の言うことに全て賛成してくれておりますの。もう私達には行く宛はないのです。それに……テオドールはこの公爵家の正当な跡取り。ここに馴染んでおいても何にも損は御座いませんでしょう?」
とアイリスさんは可愛らしく首を傾げた。