私と公爵様はテーブルを挟んで向かいに座る。
厨房にあるテーブルはいつもの食卓よりずっと小さくて、私と公爵様の距離はいつもよりも近かった。……といっても食卓を囲んだ事などないが。
湯気の立ち上るハーブティーを私が一口飲むと、公爵様が何度もフーフーと息を吹き掛け、恐る恐る茶を一口啜った。
「……もしや公爵様は猫舌なのですか?」
「ん?あぁ、そうだ。知らなかったか」
「ええ。公爵様とは食事をした事もありませんので」
……何とも言えない沈黙が落ちる。すると公爵様は、
「確か……君がこの屋敷に来てもう八年程になるな。考えると、その間一度も……お茶でさえ、こうして一緒に飲むことは無かった」
今回は私が嫁いで来た年数を間違う事はなかったようだ。それだけでも少し嬉しく感じるのは何故だろう。
「でも、今はこうして膝を突き合わせて飲んでいるではありませんか。そんな夜もあったと、またいずれ思い出す時があります」
「そうかもしれないな。君とは言い争ってばかりだったが、こんな夜もあったと思い出すのも悪くない」
私達はお互い少し微笑んだ。
公爵様も歳をとったという事か。微笑んだ目尻には皺が刻まれている。
お互い何を話せば良いのかわからないのか、はたまたこの沈黙が心地好いのか、黙ったままお茶を飲む。
すると、公爵様は
「養子の件だが……いずれ君にきちんと話そうと思う。君の事は信用に値する人間だと思っているから」
と一言口にすると、
「さて、私は少し仕事を思い出した。先に失礼する。君はゆっくりしていけば良い。……お茶をありがとう」
と公爵様は立ち上がった。
今まで仕事を手伝った時でも、夜会で他の貴族との橋渡しをした時でも礼など言われた事はなかった。それが、お茶を淹れただけで礼を言われるとは……。
私がそんな公爵様に驚いている内に、公爵様は厨房から出て行った。
初めて公爵様とこんな穏やかな時間を過ごした気がする。
私は少しだけ心が温かくなったような気がした。
今思うと公爵様とのあんな時間は後にも先にもあの夜だけだった。
最初で最後の穏やかな時間だったのだ。
私はふと我に返った。
今、ちょうど棺に花を手向ける時間になったらしい。私がそれをするのを周りの皆が見守っている。
少し……昔を思い出す時間が長かったようだ。
棺が降ろされて、その上に土が被せられる。
五日前のあの大雨が嘘のような天気の中、夫だった人物の最期を私は見送った。
私はやっと、自由になれた。もう公爵様の監視の目はない。
そう……自由になれた筈だったのだ。
ギルバートが何度も
「あの時、私が強くお止めしていれば……」
と言って自分を責めていた。
あの大雨の翌日、領地の村で雷により大木が倒れ、ある店に被害が出たとの報告が上がった。
私がその報告を受けたのは、既に夕暮れが迫っていた時だった。
「怪我人や被害者は?」
報告に来たアーロンに私は尋ねた。
「先程公爵様にも報告しましたが、被害のあった店にはその日は誰もおらず、怪我人等はおりません。しかし、店舗はもう使い物にはならないようです」
「そう。店主も災難だったけど怪我人が出なくて、不幸中の幸いだったわね。お店の復興が一日も早く遂げられるよう、公爵様ならきっと支援を申し出るでしょう」
と私は言った後、
「ところで、このお店は何のお店だったの?」
とアーロンに尋ねた。
「確か……」
とアーロンは書類に目を落とすと、
「あぁ。パン屋ですね」
と答えた。
「ご主人様、それは無謀でございます」
とギルバートの声が玄関から聞こえた。
「いや、私の馬なら大丈夫だ。これぐらいの小雨であれば問題ない」
もう一人は公爵様か。
昨日の大雨は今ではすっかり小降りとなっている。風も穏やかだが、空は厚い雲に覆われており、まだ夕方だというのに、すでに夜を迎えた様に暗かった。
私は二人の声のする方へとソニアと共に向かった。
「どうしましたの?」
と尋ねる私に、
「今から領地へ向かう」
と公爵様は簡潔に答える。
確かに小雨になっているとはいえ、昨日までの雨で地面はぬかるんでいるし、 もう空は暗い。
「さすがにそれは危ないのではないですか?足元も悪く馬車が通るには危険な箇所も御座いますでしょうし」
領地へ行くには山を一つ越えなければならない。さほど高い山ではないが、状況を考えると無謀だと思える。
ギルバートも私に同調するが、公爵様は一切の忠告を聞かなかった。
「私の馬なら大丈夫だ。それに何度も通った道。君なんかよりも私の方がよくわかっている」
と私に不快感を示した。
「何故そうまでして今日ここを発つ必要があるのです?明日まで待てばよろしいではないですか!」
そう言った私の言葉に何故か空気がピリついた。
「明日まで待てない」
と怒った様に言って私に背を向けた公爵様に私が更に何か言おうと一歩踏み出した時、私と公爵様の間にギルバートが入った。
「奥様、ここは私にお任せ下さい。ソニア、奥様を食堂へ案内するんだ。もう用意は出来てる筈だ」
と私の後ろに控えるソニアにギルバートは声をかけた。
確かに私達は食堂に向かっている最中だった事を思い出す。その途中で二人の声が聞こえたのだ。
「でも……」
と言った私に、ソニアも
「奥様。ギルバートさんにお任せしましょう」
と私の腕にそっと触れた。
確かに私の言う事よりギルバートの言う事の方が、公爵様は耳を傾けるだろう。
そう思った私は、渋々ながら
「……わかったわ」
と言って二人に背を向けた。
しかし食堂に向かう私の胸には形容し難い重苦しさがのし掛かっていたのだった。