私と結婚した事で公爵様の『女嫌い』の噂は鳴りを潜めた。
代わりに『おしどり夫婦』などと言われる様になってしまった事は私にとっては一種の悪口の様なものだ。誰が好き好んでこんな男と仲良しこよしをしなければならないのか。仮面夫婦とはまさしく私達の為にある言葉に違いない。
しかし、
『あまりに仲の良い夫婦には子どもも遠慮してしまう』などという様な事を言う人も居て、私の気持ちとは裏腹に、ますます私達はおしどり夫婦感を強めていった。
「ムスカ、私って公爵様と仲良くしている様に見えるの?」
街を散策しながら、私は無口な護衛に話し掛ける。
「……見ようによっては」
と何とも曖昧な返答を寄越す護衛に、
「ふーん……。お互い嫌ってるのにね」
と私は苦笑した。するとムスカは、
「ご主人様が奥様を『嫌って』いるのかは分かりませんが、ある程度認めているのは確かではないですか?」
と私に言う。
私の作った人脈が、公爵様の仕事にも役立つ様になったのは、私が嫁いで三年ほど経った頃だったろうか。
「ほら!オーネット公爵家の役に立ったではないですか!!あの時のあの発言、撤回して下さいませ!」
と私が言った時に、
「そんなものは忘れた」
ととぼけた公爵様にイライラした事を思い出した。
しかしそんな事より、
「ムスカ……貴方、長文が話せたのね。貴方ともう六年程一緒にいるけど、貴方の気持ちを聞いたのは初めての様な気がするわ」
と私はそちらの方に驚いた。
ムスカは、
「まぁ。たまには」
と少し笑った。
「貴方……笑うのね」
と私はまたもや驚かされたのだった。
「あれ?これ、間違って私の所に紛れて持ち込まれたのではないかしら?」
さっきギルバートが持ってきた帳簿の中に私が見慣れない物が紛れ込んでいた。
それは、領地にあるオーネット家本宅の帳簿。何故か公爵様は私に領地のオーネット家の収支を頑なに明かしてこなかった。
別に私も自分の仕事を増やしたい訳ではないので、それを知りたいとも暴きたいとも思った事がなかった為、最初にこれを見た時に全くピンと来ていなかった。
私は何の気なしにパラパラとその帳簿を捲る。
ふと……気になる物を見つけてしまった。
すると『コンコンコン』と忙しなくノックの音が聞こえたかと思えば、ギルバートが私の返事も待たずに入室してきた。
私は思わず、
「ちょっと!まだ入室の許可は……」
与えてないわよ!と言う私の言葉など全て遮って、ギルバートは私の手の中の帳簿を見つけると一目散に近付いて、私の手の中から、それを取り上げた。
「痛っ……!」
勢い良く引ったくられたせいか、手を紙で切ってしまった。
しかし、そんな私の言葉もギルバートは気にもせず、
「間違えた書類を持って来てしまいました。失礼いたします」
とその帳簿を抱き締めると、一礼して部屋を出て行こうとする。
私はその背中に、
「ねぇ……今、領地のお屋敷には使用人は何人居るのかしら?」
と尋ねた。ギルバートは私のその声に肩をピクリと震わせる。
いつもは冷静……というか無表情なギルバートがさっきは焦っている様に見えた。
……これは只事ではないんじゃないかしら?
「さぁ……。通いの者を含めるとかなりの数になるかと思います」
ギルバートは背中を向けたまま、曖昧にそう答えた。
「ふーん。……ねぇ、公爵様はとってもパンが好きなのかしら?それとも使用人の中に無類のパン好きでも居るの?」
「はて?私には使用人の好みまでは分かりかねます故」
「……そう。わかったわ。ごめんなさいね引き留めて」
と私が言えば、ギルバートは、
「では失礼します」
とこちらに一瞬振り返った。
私はそのギルバートに、にっこりと微笑む。何故かギルバートはそれを見てギクリとしたように顔色を変えた……様に見えた。
しかし、直ぐ様いつも通りの無表情に戻ると部屋を出て行ったのだった。
「うーん。怪しい」
と私は独り呟く。
私はそこら辺の紙の裏に、ざっと計算をしてみる。
「使用人を仮に二十五人程と仮定して……と。やっぱり、肉や魚、野菜の支出に比べて、パン代が異常に多いわね。パンばかりを食べている使用人でも居るのかしら?……まぁ、あの様子から察するに訳ありってことかしらね」
と私は紙に書きなぐった数字を見ながら呟いた。ギルバートの様子はそれを十分に裏付ける。
だからと言って、別段調べるつもりなどない。
本宅の収支は私の管轄外だ。どうにでもしてくれ。
……でも……私が使うお金に、細かくグチグチとケチをつける公爵様が、あれに気づかない訳はない。
私は自分の部屋をサッと見回した。
この部屋だって、私なりに居心地良く整えたかったのに、あれはダメ、これはダメと言われた結果、嫁いで来た日と殆んど変わっていない。
ソニアが「欲しい物や、足りない物は何でも言ってくれ」と言っていた手前、公爵様に断られる度に大きな体を精一杯小さくして申し訳なさそうにするものだから、この部屋を私好みにする事すら、今ではとっくの昔に諦めた。
なのに、あのパン代。何となく解せぬ。