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第8話

    4


「女の子……?」


「はい」

 真帆は小さく頷き、黒猫を見つめながらひざまずくと、

「彼女の名前は、椿樹里」


 その瞬間、黒猫の耳がピクリと動いた。


 ゆっくりと頭をもたげ、真帆を睨みつける。


「――お前、樹里を知っているのか?」


 その問いに、真帆はゆっくりと首を横に振り、

「……直接お会いしたことはありません。ただ、以前おばあちゃんから、樹里さんのことを聞いたことがあったんです。これを見てください」

 言って真帆は、どこからともなく一冊の本を取り出した。


 いや、違う。


 B5サイズの、授業に使うようなノートだ。


 華やかな装丁はたぶん、その女の子が自らアレンジしたものだろう。


 その表紙には、一匹の黒い猫と、黒いとんがり帽子に黒のローブをまとった、小さな女の子が並んでいた。


 そう言えば、いつかの朝、真帆が小脇に抱えていたのを見た気がする。たぶん、あのノートだ。


 そのノートを見て、黒猫は眼を見開き、

「な、なんで、お前がそれを――!」

 歯を剥き出しにして、唸り声をあげた。


 真帆はその表紙を撫でながら、

「おばあちゃんが、樹里さんから頂いた――いいえ、おばあちゃんは、最初から貰おうなんて思っていなかった。時が来れば、また樹里さんに返そうと思って、ただお預かりしていただけだった」


「……じ、じゃぁ、なんでそれを真帆が?」


 私が問うと、真帆は深呼吸を一つして、


「――亡くなられたからです。十二年前、事故に遭って、家族全員……」


 その言葉に、私も美智も、思わず息を飲んだ。


 互いに視線を交わし、次いでもう一度、黒猫の方に顔を向ける。


 黒猫は、けれど何も驚いた様子はなかった。


 物悲しそうな眼をノートに向けたまま、微動だにもしない。


「……十二年」

 私は呟くように口にする。

「まさか、そんな長い間、この猫は学校に居たってこと? その樹里って女の子を探して」


 黒猫は私に視線を向け、何かを訴えるように、じっと見つめ返してくる。


 しばらくの間、黒猫はそうしていたが、やがて小さく「ふんっ」と鼻を鳴らすと、

「――最初の何年かだけだ」

 吐き捨てるように、そう言った。

「なかなか家に帰ってこない樹里を、俺は何年もかけて、ここで探し続けた。あまりにもたくさんの人間に囲まれて、誰が誰やらわからなくて苦労したが、俺はやがて一つの結論に至った。ここに樹里は居ない。でも、もしかしたら、家には帰っているんじゃないか。そう思って、俺は一度家に帰った。けれど、そこに、俺の家はすでになかった。いつの間にか取り壊されていて、新しい家に、新しい人間が住んでいたんだ。俺は行き場を失って、消えかかった樹里の匂いを辿って――結局、気づいたら、この学校に戻っていた」


 私は何も言えなかった。


 ただ黙って、黒猫の言葉を聞いていることしかできない。


「樹里が俺を捨ててどこかへ行ったなんて考えられなかった。だとしたら、答えは一つしかない。俺は覚悟を決めて、樹里に流れているはずの魔力を探った」

 黒猫はそこで深いため息を吐き、

「――そこには、何もなかった。魔力の流れは、途中で切れて、俺の中に戻ってきていたんだ。それが何を意味しているのか、俺にはすぐに解った。魔女との契約やその破棄は、俺自身にしか行えない。にも関わらず、魔力の流れが途切れてるってことは、もう、この世に樹里は居ないってことだ」

 そこまで言って、猫は校舎を見つめながら、

「……それ以来、俺はずっとここに居る。ここには樹里の記憶がそこかしこにある。樹里を感じていられる。それだけで十分だった。それなのに、お前が邪魔をして――」


「いつまでそうしているつもりなんです?」

 真帆は言って、キッと黒猫を睨みつけた。

「樹里さんは、そんなことを望んでなど居なかった。見てください」


 真帆は手にしていたノートを開く。


 その瞬間、開いたノートからまばゆい光が溢れて、私たちを包み込んだ。


 何が起きているんだろうと戸惑っていると、やがて周囲に淡い緑色の森が現れた。


 まるで色鉛筆で塗ったような、パステルカラーの明るい森。


 そこには手書きの可愛らしい動物があちこちに居て、みんな仲良さそうに笑っている。


 そんな森の上空に目を向ければ、どこまでも青い綺麗な空。


 そこには、箒に腰かけて空を飛ぶ女の子と、黒猫の姿があって――


「……樹里」

 黒猫が呟くように、そう口にした。


 女の子は、先端に星のついた棒を手にしており、それを振るたびに、色々な魔法を掛けて動物たちに見せて回った。


 綺麗な花を出したり、花火を打ち上げたり、お菓子をふるまったり――


 そのたびに、動物たちの間に笑顔が広がる。


「……樹里さんの将来の夢は、みんなを笑顔にする魔女になることだった」

 言って真帆は、にっこりと微笑み、

「セロ、あなたと一緒に――」


 その言葉に、大きく目を見開く黒猫――セロ。


 真帆はそんなセロに、更に畳みかける。


「今のあなたを見たら、樹里さんはきっと悲しみます」


「――っ」


 セロの息を飲む音が聞こえたような気がした。


 空を飛び、笑顔で魔法を振りまく樹里さんの姿。


 そんな彼女の隣で、にっこり笑う、セロのイラスト。


 途端にセロは、顔を地面に向け、激しく震えだした。


 真帆はゆっくりとセロに近づくと、その震える体をそっと抱きあげ、

「――私と契約してください。私は、樹里さんの代わりにはなれない。けれど、私も小さなころから、樹里さんの描いたこの絵本が大好きで、私も彼女と同じように、将来はみんなを笑顔にする魔女になりたいと思うようになりました。あなたが居れば、私にはそれができる。おばあちゃんも、きっと私を認めてくれるはずなんです。それに――」

 と真帆はセロの身体を優しく抱きしめ、

「――やっぱりひとりは、さびしいでしょ?」


 セロはしばらく真帆に抱っこされていたが、やがて「ふんっ」と小さく鼻を鳴らすと、

「……いいだろう。そこまで言うのなら、俺はお前と契約してやる」

 言って、その小さな額を真帆の鼻先に押し付けながら、

「――お前に俺の魔力を分けてやる。その代わり、美味い飯と温かい寝床を約束しろ。さもなければ、この契約は破棄とする」


 それと――と、セロは顔をあげ、真っ直ぐな視線で真帆を見つめながら、


「――たまにモフれ」

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