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「おはよう、早苗ちゃん。いつもごめんなさいね」
おばあちゃんはそう言って、にっこりと微笑んだ。
私もつられて笑みを浮かべながら、
「あ、いえ。通り道ですから」
それからおばあちゃんは暖簾をめくり、奥の方へ声を掛ける。
「真帆! 早苗ちゃんが迎えに来ましたよ!」
「……ふぁ~い」
いつも通りの、気のない返事。
きっとまだ歯磨き中なんだろう、そんな声だ。
「――おはよう、早苗ちゃん」
そう言って暖簾をめくって出てきたのは真帆――ではなく、お姉さんの加奈さんだった。
加奈さんは高校を卒業後、近くの専門学校に通っているらしく、その姿は中学生の私たちとは違って全然大人っぽい。
確か、今年で十九歳だっただろうか、大人のお姉さんって感じだ。
「もうちょっと待っててね、すぐ出てくると思うから」
「あ、はい」
加奈さんはにっこり微笑んで、
「じゃぁね。おばあちゃん、いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
おばあちゃんに見送られて、加奈さんはお店から出て行った。
それから間もなくして、
「おはよう~、早苗」
間延びしたような声で、真帆が眼を擦りながら暖簾を捲る。
けれどその髪は寝ぐせだらけで、中学校指定の通学鞄も手にしていない。代わりに小脇に抱えているのは薄汚れたノートが一冊。
何やら可愛らしい手書きのイラストが表紙に描かれているけれど、まさか、それ一冊で全部の授業を受けようっていうワケじゃないよね?
「――真帆、鞄」
「……あぁ」
真帆はマイペースにふらふらと奥へと引っ込むと、時間なんて気にする様子もなく、ゆっくりと時間をかけて改めて鞄を持って出てきた。
……でも多分、持ってきたのは鞄だけじゃないことを、私は知っている。
「真帆、早くしなさい。早苗ちゃんに失礼でしょう。もう、毎朝毎朝――」
腰に手を当ててため息を吐くおばあちゃんに対して、真帆はあくびをしながら鞄を背負うと、
「は~い。いってきま~す」
「はい、いってらっしゃい。早苗ちゃん、真帆をよろしくお願いしますね」
「はい。いってきます」
おばあちゃんに見送られながら、私たちはお店をあとにした。
漣中学二年C組。
そこが私、田中早苗と友達の楸真帆、山畝美智の教室だった。
二人とは一年生の時も一緒のクラスで、この春に進級したときのクラス替えでも、離れ離れになることはなかった。
真帆曰く、「ちょっと色々細工した」そうだけれど、たぶん、また勝手におばあちゃんの魔法道具を使ったんだと思う。
美智に髪を梳かしてもらいながら、今日も真帆は勝手に持ち出したおばあちゃんの魔法道具を矯めつ眇めつしながら、鼻歌を歌っている。
「何に使う道具かなぁ~」
ワクワクしたように、そう口にする真帆。
……そう。
真帆はその道具が何に使うものか解らないまま、持ち出してくることがあるのである。
正直、不安と言えば不安ではある。
けれど、それにも増してワクワクしてしまうのは、たぶん、私も同じ。
だって『魔法』だよ?
真帆に出会うまで、そんなものはファンタジーの中だけのものだと思ってた。
だけど、現実に『魔法』なんてものがあるのを知って、ワクワクしないわけがない。
最初に真帆が魔法なんてものを使ったのは、中学校に入学してしばらく経った、夏休み前のことだった。
そろそろクラスの中での自分たちの立場が確立してきたころ。
私たちの在籍していた一年D組でその時もっとも目立っていた女の子、檜垣美香が、事あるごとに真帆に絡んでくるようになったのである。
たぶん、その真帆の可愛さが檜垣さんには気に入らなかったんだと思う。
彼女は学校で一番の美少女と言っても過言ではなかった真帆|(ただし黙って普通にしていれば)に対して、ありもしない噂を勝手に流して先生に告げ口したり、変なものを真帆の机の中に隠しては真帆が持ってきたことにしてクラスで大声で訴えたり(これ自体はのちのち事実となる)といった嫌がらせを始めたのだ。
私も美智も、そのころにはもう真帆と仲良くなっていたから、幾度となくそのとばっちりを受けていた。
そろそろ先生に相談した方がいいんじゃないか、と三人で話し合ったとき、真帆はニヤリと怪しげな笑みを浮かべて、こう言った。
「……大丈夫ですよ。彼女の天下も、今日までです。ぷぷっ――!」
私も美智も顔を見合わせて、どういう意味だろうって思ったのだけれど、その翌日。
檜垣さんが突然授業中に立ち上がり、
「と、とうもろこしが、とうもろこしがあぁ――!」
そう叫んで、教室中を逃げ惑うように駆け回り始めたのである。
何人かの先生に取り押さえられて、檜垣さんはようやく正気を取り戻したのだけれど、あれ以来、彼女はすっかり大人しくなってしまった。
その時、私は思わず真帆に訊ねた。
「いったい、何をしたの?」
真帆はぷぷっとおかしそうに笑みを浮かべると、
「――トウモロコシの呪い、という魔法です」
手の平の干からびたトウモロコシの粒を私に示しながら、そう答えたのだ。
それ以来、真帆は事あるごとに(というか学校の暇つぶしに)おばあちゃんの魔法道具を勝手に持ち出しては学校で使ってみる、という悪戯を始めたのだった。
最初こそ、私も美智も「いいの?」「大丈夫?」と声を掛けていたけれど、だんだん慣れてくると、私たちもその悪戯が面白くて、ついついいつの間にか、真帆と一緒に楽しむようになっていた。
「見たところ、ただの筒に見えるけど?」
美智が真帆の髪を梳き終わり、今度は左右に小さな三つ編みを作って、それを後ろで結びながらそう口にした。
確かに、今、真帆が手にしているのは一見するとただの筒だ。
たまに観光地とかの売店で売ってそうな万華鏡みたいな大きさで、けれど装飾は一切されてなくて、ラップの芯を真っ二つにちょん切っただけ、と言われても信じてしまいそうな代物だ。
「う~ん、なんでしょう?」
と真帆は口にし、
「一応、両端にガラスっぽい透明な板が張ってありますけど、それ以外は何の変哲もない筒ですね……」
「もしかして、ただの望遠鏡か何かじゃない?」
私がそう言うと、真帆は実際にそれを望遠鏡みたいに覗き込みながら、
「確かに、覗けば向こう側は見えますけど、別に大きさが変わったりするわけでもありませんし――」
言って筒の先で手を動かした瞬間、「……お?」と呟く。
「なに? どうかした?」
美智に問われ、真帆は「ほうほう」と口元に笑みを浮かべる。
それからおもむろに筒から眼を離すと、
「お昼からの体育、楽しみにしててください!」
そう答えて、にっと笑った。