7
空を飛ぶ、なんてことは、そうそうあることじゃない。
特に、箒に乗って空を飛び回るなんてこと、普通なら絶対に有り得ないことだ。
私だって、うんと小さかったころに一度だけ、お母さんの箒に乗せてもらったことがあるだけだ。
あの時はそのあまりの不安定さに酔って眼を回してしまったけれど(あれ以来かな、魔法に興味をなくしちゃったのは)、お母さんとは違って、アリスの運転はとても慎重で安定していた。
と言っても、私はただアリスの腰にしがみついていただけで、周囲の夜景を楽しむなんてことは全くできなかったのだけれど。
私たちは中庭のバラ園に降り立つと、二人並んで母屋の方に体を向けた。
店の中は煌々と灯りが点されており、そこで真帆が私を待っているのは明白だった。
私はガラスの引き戸に手を掛けて――けれど、そこで一旦動きを止める。
あんな喧嘩をした後だ。
なんだかやっぱり、戸が開け辛い。
アリスはそんな私の肩に手をやり、顔を覗き込みながら、
「大丈夫」
そう一言口にして、優しく微笑んだ。
うん、と私は頷き、がらりと引き戸を開ける。
「――おねえちゃん!」
開口一番、真帆は私に駆け寄ってくると、
「ごめんなさい!」
そう言って、深々と頭を下げた。
「え、あぁ……」
その見慣れない真帆の行動に、私は思わず狼狽え、声にならない声を漏らす。
何と答えて良いか解らず、しばらく立ち尽くしていると、
「――加奈」
再びアリスに声を掛けられ、私は「う、うん」と小さく頷いた。
それから頭を下げたままの真帆に、
「……いいよ、もう。あと、私も、ごめん。いきなり怒って」
何とかそう口にして、大きなため息を一つ漏らした。
真帆はゆっくりと上半身を起こすと、その泣き腫らした赤い目を私に向けながら、
「いいえ、悪いのは私です。またいつもみたいにふざけてしまったから――」
「……もういいって言ってるでしょ?」
私は頑張って笑みを作り、
「今日の喧嘩は、これでおしまい。ね?」
真帆は小さく「……はい」と口にして、私と同じように微笑んだ。
――うん、これでいい。でしょ? アリス。
そう思いながらアリスに顔を向けると、アリスは私のその意を汲んで、小さくこくりと頷いた。
これで一件落着、と思いながら、ふとカウンターの上に目をやれば、壊れた瓶底眼鏡がハンカチに置かれた状態でそこにはあった。
……あぁ、そうか。
私はカウンターに歩み寄り、
「ごめん、これ、壊しちゃって…… お店の商品なのに……」
衝動的な怒りに任せて壊したその瓶底眼鏡のグラスは、見事なまでに粉々に砕けていて、もう、二度と直せそうになかった。
もし貴重な代物だったら、弁償のしようがない。
まずいことをしたなぁ、と思っていると、
「――大丈夫ですよ」
と真帆は言って微笑み、アリスに顔を向けた。
「アリスさん、お願いできますか?」
言われてアリスは「うん」と頷き、私のところまで歩み寄ると、壊れた瓶底眼鏡に両手をかざした。
それから歌うように、囁くように、何と言っているのか解らない謎の言葉を口にして――
次の瞬間、瓶底眼鏡が、眩しい光に包まれた。
私は眼を開いておくことができず、ぎゅっと固く瞼を閉じる。
それからいくらもしないうちに光は収まり、ふっと瞼を開いたそこには。
「――直ってる」
確かに壊したはずの瓶底眼鏡が、まるで何事もなかったかのように、そこにはあった。
「……これ、アリスがやったの?」
アリスはどこか恥ずかしそうに、「うん」と頷いた。
「アリスさんは、壊れた物を元に戻す魔法が得意なんです」
真帆は言って、何故か自分の事のように胸を張った。
真帆らしいと言えば、真帆らしい。
「――じゃぁ、アリスも真帆みたいに、こんなお店を持ってるの?」
アリスに問うと、アリスは「あ、ううん」と口にして、
「私は、お店とかじゃなくて――」
「アリスさんは、ゼンマキョウからの紹介や派遣が主ですね」
……なんで、あんたが口を出すのか。
呆れながら真帆に視線を向けると、真帆は「あっ」と言って口を両手で覆う。
それを見ながら、アリスはくすりと苦笑した。
「ゼンマキョウって、なに?」
そうアリスに訊ねると、
「全国魔法遣協会。略して、全魔協。日本中の魔法遣いや魔女が登録していて、お互いに苦手な分野の魔法を補い合ったり、依頼人への紹介、斡旋、派遣なんかをやってる組織、って言えばわかるかな」
「……なにそれ、そんな怪しげな組織があるの?」
私の言葉に、アリスは「怪しくないよ」と小さく笑った。
「まぁ、魔法遣いや魔女なんて、元々異端扱いされてますからね。怪しまれても仕方がないです」
と言って真帆は小さくため息を吐き、
「あ! ちなみに私も登録してて、お仕事貰ってます!」
何故かそう胸を張る。
「――ふぅん?」
……なるほど、普段「お仕事に行ってます」って言ってたのは、このことだったのか。
このお店だけが、真帆の仕事のテリトリーって訳じゃなかったんだ。
どうせ遊び回っているんだろう、なんて思っていたけれど、どうやら私は、反省しなきゃならないみたいだ。
「――ん? ってことは、昼間、アリスが訪ねたおじいさんは、その依頼人……?」
その途端、アリスは「えっ」と目を丸くして、
「み、見てたの?」
「あ、ごめん。たまたまアリスを見かけて、気になったから……」
途端に動揺するアリス。
どうしよう、どうしよう、と小さく繰り返す。
「え、まずかった?」
私の問いに答えたのは、
「――協会の守秘義務に抵触する恐れがあるからな」
とカウンターの上に飛び乗ってきた、クロだった。
「本来であれば、誰から依頼があったか、ってのも、一般人には伏せなければならない決まりになっているからな」
……え、マジ?
「ご、ごめん、アリス、そんなこととは知らなくて――」
「う、ううん、私も、油断してたから――」
アリスはそう言ってくれたけれど、でも……
「大丈夫ですって!」
そう明るく口にしたのは、真帆だった。
「バレなきゃ大丈夫ですよ! そもそも私なんて、協会の規則に触れまくりですよ? だいたい、触れたって怒られるだけなんですから、二人とも気にしすぎですって!」
アハハッと笑う、真帆のその軽さ。
本当に大丈夫なのか、この子。
私は思わず呆れてしまう。
本気で心配で、仕方がない。
まったく、もっとしっかりしてくれないものか――
なんて思いながら、ふとアリスに顔を向けると、アリスはそんなお気楽な真帆とは対照的に、まだちょっと気にしているらしく、
「う~ん、でも――」
と頭を抱えていた。
見ていて何だか可哀そうでいたたまれず、とりあえず今は話を逸らせようと、私は辺りを見回して、
「――あ、そういえば、アリスは壊れた物を元に戻せるんだよね?」
「……え?」
とアリスはこちらに顔を向け、
「うん、まぁ――」
「じゃぁ、あれは? あの大きなノッポの古時計。あれも直せるんじゃないの?」
店の隅の時計を指さしながら訊ねると、答えたのはアリスではなく、真帆だった。
「それは――一度見てもらいはしたんですけど、駄目でした」
「え、なんで?」
首を傾げる私に、アリスは、
「元に戻すって言っても、正確には修復しているわけじゃないの。壊れる前の状態まで、物の時間を戻してるって感じかなぁ」
しかも、と真帆がそのあとを継いで、
「壊れてからどれくらい経っているか、どれだけ複雑か、それによってアリスさんの体にかかる負荷が大きくなっていくんです。なので、壊れてから時間が経ちすぎていたり、あの時計みたいに、仕組み自体が複雑すぎるものは、元に戻すのが難しいみたいで。それにほら、アリスさんはもともと――」
「あぁ、なるほど……」
確かに、アリスはもともと、そんなに体が強い方じゃない。
真帆の口ぶりから、たぶん、相当な負担になるのだろう。
「……そっか、魔法って言っても、万能じゃないんだね」
そう口にした私に、真帆は、
「あ、でも!」
と両手を合わせながら、にやりと笑う。
……なんか、嫌な予感がする。
「私、どんな魔法よりも一番効く、ある意味万能な魔法、知ってますよ!」
「……」
「訊きたくありませんか?」
「……」
「ねぇ、訊きたいですよね、おねえちゃん?」
「……」
絶対、その手には乗ってやんないんだから。
今の真帆は、また私をはめようとか考えてそうな顔をしている。
けれど、
「――訊いてあげたら?」
アリスに言われて、私はため息を一つ吐くと、仕方がない、と渋々訊ねた。
「……どんな魔法?」
真帆は「ふふん」と鼻を鳴らし、
「――言葉です」
そう、口にした。
「……え、どういうこと?」
「ほら、今日の喧嘩も、もともとはそこが原因じゃないですか」
「――なにが?」
首を傾げる私に、真帆は、
「おねえちゃんが、自分の気持ちをアリスさんになかなか伝えられなくて、それが原因で――」
「ちょ、ちょっと待って! 今、その話する? 強引すぎない?」
何言ってるんですか、と真帆はぷぷっと笑い、
「私が強引なのは、おねえちゃんもよく知ってるでしょ?」
「いや、でも、だからって――!」
焦る私に、真帆は畳みかけるように、
「ほらほら、アリスさんも待ってますよ!」
――え。
私は思わず、アリスの方に目を向ける。
アリスは私のすぐ横に佇んだまま、じっと私の横顔を見つめていた。
私が何を伝えたいと思っているのか、アリスはたぶん、もう、解っているのだ。
でも、だからって、そんな――
「大丈夫です」
真帆が私の背を押すように、微笑みかけてくる。
「言葉は、一番の魔法なんですから。信じてください」
「え、あ……」
信じろって言われても――
あまりに突然のことに、私は顔を真っ赤にしながら、アリスに体を向けた。
アリスはにっこりと微笑んだまま、私と向き合い、
「……」
ただ黙って、私の言葉を待っている。
私は大きく深呼吸をすると、胸に手を当てながら、ゆっくりと息を吐き、
「あ、あのね、アリス――」
「――はい」
とアリスは返事して。
「私、その……」
なんて言えばいいんだろう。
どんな言葉で、この気持ちを伝えればいいんだろう。
いろんな言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消え――
けれど、どんなふうに言葉を飾り付けても、そうじゃないような気がして。
「……ごめん。うまく言葉が出てこない。だから、今はこれだけ、伝えるね」
私はもう一度ゆっくり息を吐き、それから、その言葉を口にする。
「――大好き」
アリスは「うん」と頷くと、あの優しげな微笑みを浮かべながら、
「――私も、加奈が大好き!」