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第5話

   5


 その日の夕方。会社を退勤した私は、いつもの通り、まっすぐ帰宅する。


 昼間のアリスの一件で、私は真帆との喧嘩のことなど、きれいさっぱり忘れ去っていた。


 仕事中はなるべく考えないように努めていたけれど、気付くとアリスのことばかり考えている自分に、思わず溜息を漏らす。


 果たしてアリスはいったい、何の目的であんな民家を訪れていたのか。


 普段、いったいどこで何をしているのか。


 そんなことばかりを考えながら、私はおじいちゃんに「ただいま」と声を掛けてから、表の古本屋を通り抜け、母屋へと向かう。


 ガラスの引き戸に手をやると、今日は鍵が掛かっていた。


 どうやら真帆も外へ出ているらしい。

 あの子もあの子で、いったいどこで何をしているんだか――


 クロは「仕事だ」と言っていたけれど、やはりにわかには信じがたかった。


 私は小さく溜息を漏らし、鍵を開けると中に入る。


 店の隅には、あの怪しげな、大きな背の高い時計がひっそりと佇んでいた。


 確かに今日は動かしていないらしく、長針も短針も、もちろん秒針すら動いてはいなかった。


「いっそこのまま、二度と使えないようにぶっ壊してやろうかしら――」


 なんてことを忌々しく思いながら呟き、ふとカウンターに目をやる。


 そこには、何やらやたらと古めかしい感じの、小さな眼鏡が置かれていた。


 昔の文豪とかが掛けていそうな、瓶底眼鏡だ。


「――なにこれ?」


 店のカウンターにあるってことは、何か魔法の道具だとは思うんだけれど……


 これはまた、何とも怪しい代物だ。


 一見すると昭和よりもまだ古そうなデザインだけれど、よくよく見れば、汚れなどほとんどついておらず、比較的新しいのであろうことは明白だった。


 ぱっと見では何に使う道具なのか全く想像もつかない。


「ふぅん……?」


 私は特に深く考えず、その眼鏡を手に取ると、何となくかけてみる。


 ――うん、何の変哲もない、ただの眼鏡だ。


 しかも、度すら入っていない、完全なるただのガラス。


 もしかして、ただのファッショングラスか何かだろうか?


 そう思っていると、がらりと後ろの引き戸が開く音がして、私は思わず振り向いた。


「――えっ」


 そこには、アリスが立っていた。


 昼間見たあの姿のまま、茫然と、私の顔を見つめている。


「ア、アリス? どど、どうしたの? 何か用事?」


 昼間の件で、私は動揺しながらそう訊ねた。


 アリスは「へ?」と口にして、

「あ、あぁ――!」

 と何かに納得したようにぽんっと手を打つ。


 それからおもむろににっこり微笑むと、

「――おねえちゃん、大好き!」

 いきなりそう口にして、私にがっと抱き着いてきたのである。


「えっ、えっ、えっ?」


 何が何やらさっぱりわからない。


 確かに先週会った時、アリスが妹だったらよかったのに、とは口にした。


 まさか、あれを覚えていて、そんなことを口にしたのだろうか?


 う、嬉しいよ?


 アリスにそんなふうに呼ばれると、確かにメチャクチャ嬉しいけど、でも、なんで突然?


 何とも納得いかないまま、けれど私も抱き着かれて悪い気はしないので、思わずアリスの背中に腕を回して――


「……んん?」

 物凄い違和感を覚えた。


 今、眼にしているアリスの姿と、腕を回したその感触が、まったく一致しないのだ。


 アリスの着ているふんわりしたブラウスを突き抜けるようにして、薄いニットのような布が私の手に触れる。


 これは、いったい、どういうわけ?


 私はその妙な違和感に、何となく覚えがあった。


 これは、たぶん、いつもの如く、間違いなく―――


 私はすぐさまアリスから手を離すと、かけていた瓶底眼鏡を外して、

「――やっぱり」

 私の身体に抱き着く真帆に、大きく溜息を吐いた。


「……あらら、バレちゃいましたか」


 ちぇっと真帆はわざとらしく舌打ちして、私から体を離す。


「何やってんのよ、あんた」

 思わず呆れながら口にして、私は手にした瓶底眼鏡を矯めつ眇めつする。

「これ、なんなわけ? なんで真帆がアリスに見えたの?」


 真帆はにこっと微笑むと、

「それですか? それは、おばあちゃんがその昔、魔法市で買った魔法の眼鏡ですよ。かけると、相手の顔が好きな人の顔に見えるそうです」


 ほほう、好きな人の顔に見え――


「……なんだって?」

 私は思わず、真帆の顔を見つめる。


 体中が熱を帯び、汗が噴き出してくるのを感じながら。


「だ、か、ら!」

 と真帆は、あの人を小馬鹿にしたような顔でぷぷっと笑い、

「相手の顔が、好きな人の顔に見えるんですって!」


 え、ちょ、だ、それって――!


「おねえちゃん、やっぱりアリスさんのこと、好きだったんですね!」


 その瞬間、私は思わず、瓶底眼鏡を床の上に叩きつけていた。


 ――パリンッ


 砕けたレンズが、辺りに散らばる。


 それを見て、大きく目を見開く真帆。


 私はそんな真帆を、ぎっと睨みつけながら、

「――どういうつもり、真帆」


「えっ……」

 普段は見せないような狼狽した様子で、真帆は口ごもった。


「もしかして、わざとこんなものをここに置いてたわけ? 私がかけるように」


「ち、違います!」

 と真帆は激しく首を横に振り、

「これは、若いころのおじいちゃんが来たときに受け取ったものを、私が片づけ忘れて、ずっとここに置きっぱなしにしていただけで――!」


「じゃぁ、さっきのは何のつもりだったの?」

「……さっきの?」


 首を傾げる真帆に、私は一歩前ににじり寄る。


「あんた、さっき私に抱き着いてきたよね?」

「あ、あれは、おねえちゃんが、私をアリスさんだと思ってたみたいだったから、つい――」


「ふざけるな!」

 私は思わず、大声で叫んでいた。


 腹立たしくて仕方がなかった。


 これほど真帆を疎ましく思ったことはない。


 ただ目の前に居るってだけで、ムカつく。


「ご、ごめんなさい……」

 小さく謝る真帆を、けれど私はどうしても許す気にはなれなかった。


 一刻も早くこの家から出て行きたくて、私は足早に引き戸の方へ向かう。


 真帆とすれ違うその時、

「ほんっとサイテー。あんたなんて、大っ嫌い!」

 私ははっきりと、そう口にした。

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