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第3話

   3


 がらりとガラスの引き戸を開ける。


 しんと静まり返った店内には、真帆の姿はどこにもなかった。


 私は安堵の溜息を吐き、暖簾をくぐって奥へと向かう。


 昨日の喧嘩からこっち、真帆とは一切口をきいていない。


 というより、朝、目を覚ました時点で、すでに真帆は家の中には居なかった。


 いったい、いつもいつもどこへ行って何をやっているのやら。


 昔から自由奔放な奴だったけど、いつまで経っても本当に変わらない。


 思いながら、私は何となくおばあちゃんの部屋へ足を向けた。


 襖に手を掛け、ゆっくりと開いた先には昔ながらの畳部屋。


 明り取り用の小さな窓からは、僅かな光が部屋の中に差し込んでいる。


 左手には押入れ、右に目を向ければ、おばあちゃんが生前使っていた、古い箪笥と化粧台が置かれていた。


 私はそんな部屋の脇に置かれた衣装ラックに歩み寄ると、そこに掛けられた沢山のロリータ服に手をやった。


 よくまぁ、こんな服を着ていたもんだ。今の私からじゃぁ、考えられないよ……


 そう思いながら、私はラックから沢山のリボンや白いレースがあしらわれた黒いワンピースを取り出すと、化粧台の鏡の前で体にあててみる。


 鏡に映る微妙に疲れた私の顔に、その服は全く似合ってなどいなくて……


 当時あれだけキラキラして楽しかった時間を思うと、何だかちょっと泣けてくる。


『……ほんと、お姉ちゃんってつまらない人ですね』


 昨日の真帆の言葉が頭を過り、深い深い溜息が漏れた。


 ――そうよ、どうせ私はつまらない人間よ。


 でも、社会人になるってそういうことでしょ?

 若いころとは違う。


 好きなことだけやって生きてくなんて、土台無理な話だ。


 そう考えると、何だか余計に真帆の事が腹立たしく思えてくる。


 毎日毎日ほっつき歩いて、どうかすると二、三日帰ってこないこともある。


 何してたのかと問うても、ただ「仕事に行ってました」と答えるばかりで詳しくは教えてくれない。

 あの子の事だ、仕事と言いながら好き勝手遊び惚けているだけに違いない。


 ……たぶん、きっと。


「――取り込み中、申し訳ないんだが」


 突然背後から声がして、私は思わず「ひゃっ」と変な悲鳴を上げていた。


 慌てて振り向くと、そこには一匹の黒猫がちょこんと座り、私を見上げている。


「そろそろ腹が減ってね。晩飯を用意してはもらえないだろうか」


「……クロ」

 私は小さく溜息を吐き、安堵する。


 この子は魔女である真帆の猫だ。


 おばあちゃんの連れていた三毛猫も喋っていたので、それ自体には慣れている。


「真帆は?」

「仕事で出ている」

「クロは、一緒じゃなかったの?」

「俺は疲れたから帰ってきた。あの阿呆にはついていけん」

「……なんかあったの?」

「守秘義務があるので、それは言えん」


 守秘義務? 何それ、どういうこと?


 首を傾げる私に、クロは、

「とりあえず飯をくれ。腹が減った」


「――はいはい」


 私は服をラックに戻すと、クロと並んで廊下を歩いた。


 クロ、と私もおじいちゃんもこの猫をそう呼んでいるけれど、真帆はセロと呼んでいる。


 真帆がこの子を連れて帰った時、セロと口にしたのをクロと聞き違えたのがきっかけだ。


 以来、この黒猫は、真帆以外からはクロと呼ばれている。


 実際の名前は他にあるらしいのだけれど、その名前は誰も知らない。


 たぶん、あの真帆でさえも。


「真帆、本当にちゃんと仕事してるの?」

「ちゃんと、かどうかは何とも言えない。あいつは阿呆だからな。だが仕事はしている」

「……信じていいのかなぁ」

「さぁ? 信じる信じないは、お前の勝手だ」

「あ、そう」

「そうだ」

 言ってクロはフンっと鼻を鳴らした。


 台所に入り、私は戸棚からノンオイルのシーチキンを取り出す。


 クロは市販されている猫のエサは決して口にしない。


 何が違うのか解らないのだけれど、食べるのはいつも人と同じものだ。


 人と対等であるべきだ、と変なこだわりがあるらしい。


 とはいえ、やはり猫であることに変わりはないので、味付けなんかには一応の配慮はしているつもりだ。


 私はシーチキンと小さく刻んだ野菜を混ぜ合わせ、お皿に盛ってクロに差し出す。


 クロは匂いを嗅ぎ、がつがつと食べ始めた。


 その姿は猫以外の何物でもない、猫そのものだ。


 これを普通の人が見ても、喋ったりするなんて誰一人思わないだろう。


「……ねぇ、クロ」

 私の問いかけに、クロは視線だけを寄こす。

「あんたは何で、真帆なんかと契約したの?」


 クロはしばらくご飯を食べ続けていたが、やがてふっと顔を上げ、口元を舐めてから、

「――好きで契約したんじゃない。させられたんだ」


「……あぁ、そうか。無理やり捕まえられたんだっけ」

 思わず苦笑してしまった私を一瞥し、クロはまた鼻を一つ鳴らすと、

「あいつは悪知恵が働く。良くも悪くもな」

 けれど、と言って真っ直ぐな視線で私に顔を向け、

「同時に、それだけの力があるということだ」


 まぁ、そうかも知れないけど――


「私には、ただただ危なっかしい奴にしか見えないんだよねぇ……」


 自由だし、勝手だし、いつどこで何をするか解らないし、心配で仕方がない。


「お前が思っているほど、あいつは馬鹿じゃない」


 相当の阿呆ではあるけどな、と言って、クロは皿に盛られたご飯を全部平らげた。


 私は「そう?」と答え、その皿を下げる。

「でも、いまいち信用できないんだよねぇ、私は」


「……お前が過保護すぎるんだ。あいつはとっくに独り立ちしているぞ。お前は、いつまであいつの保護者ぶるつもりだ?」


 その言葉に、私はちょっとむっとなる。


「――あんたもそれを言うか」

「ん? 何のことだ?」


 まぁ、いいけどさ――


 私って、そんなに真帆に対して過保護なの?

 全く自覚がないんだけどなぁ……


 私は深い溜息を吐き、クロのふわふわの毛並みに目をやる。


「……おかわり、いる?」

「頂こう」

「その代わり、ちょっとモフらせろ」


 ん? とクロは首を傾げ、

「……よかろう」

 言って、ごろんと寝転がった。


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