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第12話

   11


 料亭からバスと電車を乗り継ぎ、ようやく古本屋の前に辿り着いた時には既に日も暮れ、深い橙色の光が辺りを包み込んでいた。


 そんな中、俺は挨拶もそこそこに古本屋の奥に飛び込む。


「お、悪いがまだ――」


 老人が何かを言おうとしていたが、それを振り切るようにして奥の扉を開け、中庭のバラ園を突き抜ける。


 目の前に佇む、古い日本家屋。


 そのガラス戸には紙に手書きで、『萬魔法承ります』と貼られていた。


 俺はその戸を、勢いよく開け放つ。


 瞬間、そこには驚いたような表情の女の姿があった。


 女は店の隅に置かれた大きな背の高い古時計を掃除していたらしく、

「い、いらっしゃいませ、どのような魔法をお探しですか?」

 あの決まり文句を口にしながら、慌てたように、手にしていた雑巾を床に放った。


 俺はふとその大きな時計に目をやり、

「……すまない、閉店の時間だったか?」


「あぁ、いえ、まだ、大丈夫ですよ」

 言いながら、女は時計をじっと見つめ、そして困惑したように首を傾げる。


 その顔に、俺は何となく違和感を覚えた。


 何だか化粧がいつもより薄い気がする。


 あの赤かった唇が、今は薄い桃色だ。

 化粧を変えたのだろうか?

 それに、所々跳ねていた髪の毛先が、妙に落ち着いているような――


 そこで俺は大きく頭を振る。


 ……いや、今はそんなこと、気にしている場合じゃない。


「これを返しに来た」


 俺は言いながらカウンターに近づくと、その上に例の瓶底眼鏡をことりと置いた。


 女も同じくカウンターまでやってくると、

「――これは」

 その瞬間、女の眼が大きく見開かれる。


 次いで俺の方に顔を向け、まじまじと見つめてくる彼女のその美しい瞳に、俺は思わず見惚れていた。


「……宜しいんですか?」


 女の言葉に、俺は、

「もう、必要ないみたいだからな」

 言ってから、女に向かって一歩前に踏み出す。


 女は一瞬視線を逸らし、けれど俺を拒む様子はない。


「お前の魔法、確かに効果あったよ」

 小指の指輪を示しながら、俺は言った。

「最初から、そのつもりだったのか?」


「……そうですね」

 と女は口元に笑みを浮かべ、一拍間を置いたのち、

「私は、あなたが来るのを、ずっと前から知っていました」


 まぁ、なんせミキちゃんの紹介だからな。


 恐らくこの件には、ミキちゃんも――神楽ミキエも噛んでいるんだ。


「俺があんたに恋心を抱くよう、二人して仕向けていたんだな?」


 女は小さく頷き、

「はい」

 と短く返事する。


「俺を、からかうためにか?」


「――違います」

 女ははっきりとそう口にして、

「理由は簡単です。あなたのことを、好きだったから」


 その途端、俺は全身が一気に熱を帯びていくのを感じた。


 心臓がどくどくと早鐘を打ち、呼吸が次第にに荒くなる。


 顔が熱くなって、我ながら恥ずかしくて女の姿を凝視できない。


 俺は彼女から視線を逸らしつつ、

「いったい、いつから――だって、俺はお前に会ったことはなかったはずだ」


 それに対して、女は「いいえ」と首を横に振り、

「思い出してください。大学の時、文芸サークルで、いつもミキエさんが連れてくる外部の女の子が居ませんでしたか?」


 え、と俺は眼を見張り、必死に記憶を辿ってみる。

 けれど、そんな記憶なんてどこにもなくて。


「い、いや、全然――」


 それとも、俺が全く意識していなかっただけなのだろうか?


「……そうですか」

 と女は眉間に皺を寄せ、口元に指をやりつつ、

「もしかしたら、魔法を使っていたかもしれません。誰にも気配を気づかれないように」


「魔法? なんで、そんなことを……」


 普通に参加すればよかったんだ。そうすれば、俺も覚えていたかもしれないのに。


「学生の雰囲気を味わえればそれで良かったんです。その輪の中に完全に入り込むのではなくて、一歩引いたところで、その賑わいを見ていたかった。そして――」

 と女は俺を見つめながら、

「やがてあなたに、恋心を抱くようになった」


 俺は思わず息を飲んだ。


 はっきりと口にされたその言葉に、どう答えたらいいものか、まるで解らない。


「けれど、それを口に出すことはしなかった。その恋心を抱いたまま、それで終わりにするつもりだったから」


「なら、どうして今更、わざわざこんなことを」


 女は俺をじっと見つめながら、

「ミキエさんが話を持ってきたからです。あなたがお見合いをすると知って、ミキエさんは慌ててその場を取り仕切った。その場の流れをあなたに恋愛させる方向にもっていき、そしてこの店を紹介して――」

 そして、と微笑みながら、

「――その恋心を、成就させることにした」


 俺はその微笑みに、胸がどんどん苦しくなっていった。


 この感情を、どうやって抑えればいい? 


 どうしてこんなに苦しくなる?


「――俺に、どんな魔法をかけたんだ? まさか、変な薬でも?」


「いえ、特には」

 と女は首を横に振り、

「ミキエさんの得意分野は惚れ薬の調薬ですけど、たぶん、あの人の事だからあなたには使っていないと思います。こちらからお渡ししたものも、あなたの心を変えるほどの魔法はありません。せいぜい、今、小指に嵌められている指輪だけです」


 言われて俺は小指の指輪に目をやる。


「その指輪にしても、本当におまじない程度の効力しかありません。ですから、あなたの抱いているその気持ちは、間違いなく、あなた自身のものです」


 俺は胸に手をやり、小さく溜息を一つ吐いて、

「――そうか」

 そう、口にした。


 彼女の言っていることがどこまで本当かは判らない。


 けど、彼女の様子を見る限り、俺は彼女を信じて良さそうだ、と思った。


 なら、今俺が抱いているこの感情を、俺はちゃんと彼女に伝えなければならないだろう。


 この溢れ出る初めての気持ちを、言葉に託して。


 そう、もちろん、男らしく。


 それから不意に、俺は自身の今の格好を思い出した。


 シミ付きのよれよれスーツに、駆けてきたことによる衣服や髪の乱れ。


 よくよく見れば、靴下なんて左右で別々のものを履いているじゃないか。


 靴だって砂埃で白く汚れて、何ともみっともない。


「――こんな格好じゃぁ、何にせよ締まらないな」

 俺は言って頭を掻いた。

「次来るときは、ちゃんとした格好で来るよ。それで、俺の気持ちを言葉にして伝えようと思う」


 その言葉に、女はにっこりと微笑んで、

「――えぇ、そうですね」

 と小さく頷いた。


「じ、じゃぁ、また来るよ」

「はい。また、いつでもお待ちしてますね」


 俺は踵を返すとガラス戸の方へ一歩踏み出し、

「……あぁ! そう言えば!」

 と彼女に振り向く。


「――はい?」


 小さく首を傾げる女に、俺は訊ねた。


「まだお前の名前、聞いてなかったと思って」


「そうでしたね」

 と女はにっこり微笑むと。




「――加帆子かほこひさぎ、加帆子です」





*よにんめ・了*

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