その店は、会社の最寄り駅からほど近い、高架下にある小さなバーだった。
薄暗い店内には、俺たち以外にもちらほらと客の姿が見え、それなりの賑わいを見せている。
流れるのはどこかで聞き覚えのあるピアノの曲、聞こえるのは男女の静かな笑い声。
普段あまり酒を飲まない俺にとって、この空間はどうにも居心地が悪かった。
――いや、違うか。
居心地が悪い理由は、そこじゃない。
「――どうしたの? もしかして、緊張してる?」
隣に座る社長夫人が嘲るように訊ねてくる。
夫人の格好は普段見るような(比較的)大人しい服装ではなくて、胸元の大きく広がった妙に艶めかしいものだった。
どこに目をやって良いかわからんし、なんでそんな恰好をしているのかはもっとわからん。
……いや、これが恐らく魔法の香水による効果なのだろう。
だからって、相手は人妻だぞ?
いくら恋愛してみたいからって、さすがに人妻に手は出せない。
「い、いえ、あまり、こういう店には、来ないもので――」
なんとか言葉を絞り出し、真正面の酒瓶の陳列された棚を眺める。
その手前では、バーテンダー(あるいはマスターか?)が客の注文によって、シャカシャカとそれっぽい何かを振っていた。
はて、あれは何て言うんだっけなぁ、たしか――
と、なるべく意識をよそに向けようと努めていると、
「ほら、ちゃんとこっち見て!」
突然夫人が両手を伸ばし、俺の頬を挟んで無理やり振り向かせた。
や、やめろ! 俺にそんな気はないんだよ!
なんてこと、口に出して言えるはずもなく、
「は、はい、申し訳ございません……」
引き攣った笑顔を作るので、精いっぱいだった。
そんな俺に、夫人は「もう!」と口にして、
「ここには主人はいないのよ? 何を心配しているの?」
「あぁ、いえ、心配なんて、そんな――」
むしろあんたの格好や企みに戦々恐々としてんだよ、なんてことも、当然言えない。
とにかくここは何とかして切り抜けて、さっさとお暇しなければ。
「それで、相談事というのは……」
下から見上げるように、俺はおずおずと夫人に訊ねた。
「相談事? あるわけないじゃない」
「……は?」
いや、何となくわかっていたけれども。
「あなたをここに呼び出す口実に決まっているでしょう、そんなの。解っていたでしょう?」
ややご機嫌斜めな様子でご婦人は仰られる。
「あ、いえ、まぁ、それは――」
困った。これではどう言って逃げればいいのかさっぱりわからん。
やっぱり断ればよかった……
深い後悔に苛まれながら、俺は少しだけ夫人から距離を取る。
けれど夫人はその距離を取った以上に俺に近づくと、というか身体を密着させてくると、
「――あなただって、たまには女遊びがしたいと思うでしょう?」
「え、いや、そんな――」
思わねぇよ! 早く帰りたいよ! 何なんだこの女! 夫が居ながら良いのか、こんなことして! これ完全に浮気に誘ってないか?
「……ねぇ? 少しくらい、良いじゃない」
ぎゅっと、俺の右腕を抱きかかえながら、夫人はそっと顔を寄せてくる。
その甘ったるい匂いが鼻につき、俺は思わず身体をのけ反らせる。
た、助けて――!
そう強く願った時だった。
「……ん?」
ほんのりと、バラの香りが漂い始めたのだ。
この香りは……魔法堂でもらった香水の……?
徐々に徐々に強くなっていくその香りに、俺は思わず眉を寄せる。
「――どうかしたの?」
夫人も俺の様子に気づいたのか、その動きをふっと止めた。
「あぁ、いえ、バラの香りが――」
「バラ? あなたのつけてる香水のこと?」
「なんか、やたら匂いがキツくなっていってるって言うか……」
すでにバラの香りは夫人の匂いすら打ち消し、俺の身体全体を包み込んでいるかのように強烈なものになっていた。
なんだ? 何が起こっているんだ?
咄嗟に鼻に手首を近づけたところで――
カランッカランッ
バーの出入り口のベルが鳴り、
「来たぞ、マスター!」
満面の笑みで店内に入ってきたのは、
「しゃ、社長さん!」
「あ、あなた!」
俺も夫人も、思わず口に出していた。
慌てて俺から離れる社長夫人。
こ、これはもしや、拙い所を見られたんじゃないのか?
「……ん? お前たち、どうしてこんなところに――」
社長さんの後ろにはスーツを着た数人の男たちが居て、何事かと俺たちの様子を社長さんの背中越しに覗き込んでいる。
「どうかされましたか?」
そのうちの一人が訊ねたが、しかし社長さんの耳には届いてなどいなかった。
社長さんは緩やかに鬼のような形相になりながらこちらにずかずかと歩み寄ってくると、
「……これは、どういうことかな?」
俺の顔を覗き込んできた。
「い、いえ、ち、違うんです、これはですね……」
「そ、そうよあなた、別にそんなやましいことでは――」
「それなら、お前のその恰好は何だ、はしたない!」
社長さんは夫人に一喝し、次いで俺に顔を戻すと、
「――説明してもらおうか?」
眼を大きく見開きながら、声を低くする。
拙い、拙いぞ! これは拙い!
どうする? どうすればいい?
何とかして言い逃れしなければ!
せっかくの商談はご破算になるし、それどころか今後の関係にも響いてくる!
このままだと、俺のクビも飛びかねない!
その時、再びあのバラの香りが鼻を過った。
そ、そうだ、うまくいくとは思えないけど、この際試してみるしかない!
「じ、じじ、実はですね。奥さまからこれを頼まれまして――」
しどろもどろになりながら、俺は足元に置いていた鞄から魔法の香水を取り出すと、社長の前に差し出した。
「社長さんが香水を集めてらっしゃるということで、是非とも分けてもらえないかと奥様が仰られまして、こちらを持って来させていただいた次第で――」
その無理のある言い訳に、隣で震える社長夫人もこくこくと何度も頷く。
「そ、そうなのよ! すごくいい香りでしょう? あなたもきっと欲しいだろうと思って、この人に頼んで持ってきてもらったの! ただそれだけなの、信じて!」
「―――ふんっ」
社長さんは鼻を鳴らし、俺の手から香水瓶をひったくるようにして受け取ると、おもむろにその蓋を開けて鼻に近づけて、
「……確かに、なんとも言えない良い香りだ。心が落ち着くようだよ」
そう言って、次第に表情を緩めていく。
「ありがとう、実に嬉しいよ」
「よ、喜んでいいただけて何よりです……」
俺はほっと胸を撫でおろす。
けれど、
「――だが、次はないと思いたまえ」
ドスの効いたその一言に、俺は背筋の凍る思いをしたのだった。