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香水なんてものをつけたのは、当然ながら生まれて初めてのことだった。
あの女店主に言われた通り、うなじと両手首にうっすらとつけて出勤してみたが、思った以上に匂いが気になる。
バラの香りが鼻腔をくすぐり、なんだかいやにムズムズした。
――なんで俺は素直にこんなもんつけてんだ?
思いながら、なるべく人に近づかないよう、そそくさと社内を動き回る。
時折振り返り俺を見る同僚や上司の視線が気になって仕方がなく、普段は気にならない山田さんたち事務員のひそひそ話が妙に耳障りだった。
俺はそんな社内の奇異の目から逃れるように、
「そ、外回り行ってきます!」
そう言い残して、会社を飛び出したのだった。
……意外なことに、その香水の匂いは得意先の社長さんには大変好評だった。
「いやぁ、実はわしも長年香水を愛用していてねぇ!」
そろそろ六十代になろうかという白髪頭の社長さんは、嬉々としてそう口にした。
今まで何度もこの会社にはお邪魔しているが、意識しなかったからだろう、俺はそのことに全く気付いていなかった。
言われてみれば、社長さんの体からほんのり爽やかな香りがする。
「結構ブランドにはこだわっていてね。そこの棚を見てごらん」
社長さんはソファから立ち上がると、色々な形の瓶が収められたガラス棚を示しながら、
「これらは海外に行った折に買ってきたものなんだがね――」
と一瓶一瓶丁寧に、どこどこの国のなんたらいうブランドの、うんたらいう素材から抽出されたなんちゃらで……と延々香水についてのうんちくや自慢話を始めたのだ。
他の営業や社員さんたちとはあまりこういった話にはならないらしく、ようやく得た同朋であるかのように、社長さんは楽し気に話を続ける。
俺はその間、ただ適当に相槌を打ったり、感嘆の声を漏らすことしかできなかった。
そんなの当たり前だ。
結局、これも指輪と同じで、魔法堂であの女店主から貰っただけのものでしかないのだから。
興味のない話ほど、聞いていてつまらないものはない。
いったい何時間、社長さんの香水語りに付き合わされていたことだろう。
さすがに、そろそろ会社に帰りたくなってきた。
この社長さんの香水語りを土産に会社に戻れば、俺が香水をしている言い訳もできるってもんだ。
『商談のために、あの社長さんの趣味に合わせてみたんですよ』ってな。
なんて思っていると、
「――あなた、そろそろそのあたりで。もう栄光産業さんが来られていますよ」
と社長夫人が社長室に入ってきた。
この社長夫人、確かもう四、五人目の奥さんではなかっただろうか。
多分、歳は俺よりちょっと上くらい、社長さんとの年齢差は三十近いというから驚きだ。
この社長さんは他にもたくさんの愛人がいる、という噂を耳にしているが、そんな状態で果たして結婚なんてものに意味があるんだろうか?
「お、おぉ! もうそんな時間か! すまんな、長話に付き合わせてしまった」
「いえいえ、こちらこそ興味深いお話をお聞かせいただきまして、大変参考になりました!」
――全然頭には入ってこなかったけどな。
「それで、例のお話なんですが――」
「あぁ、うん。すべて君に任せるよ! 好きにやってくれ!」
社長さんはよほど香水の話を聞いてもらえたのが嬉しかったのか、俺の背中をバンバン叩くと、
「悪いが次の客を待たせているからな、わしは先に行かせてもらうよ!」
そう言い残して、さっさと社長室から出て行ってしまった。
俺は商談が成立したことに内心万歳三唱しつつ、ちょっとだけ魔法堂の女店主にも感謝した。
意外なところで香水が役に立ったな……
「あ、それじゃぁ、私もこれで――」
夫人に挨拶し、彼女の脇を抜けて社長室から退室しようとしたところで、
「……あら、あなたが香水をつけてるなんて珍しいわね」
と声を掛けられた。
俺は立ち止まり、
「え、あぁ、社長さんが香水好きとお聞きしまして、私も試しにと……」
適当に答える俺に、夫人は「ふぅん」と怪しげな笑みを浮かべつつ、静かに歩み寄ってくる。
「な、なんでしょう……?」
戸惑う俺に、彼女は更に身を寄せてくると、スンスン鼻を鳴らしつつ、
「――いい香りね。バラ?」
「え、えぇ、まぁ……」
なんだなんだ? 何のつもりだ?
夫人からは社長さんとはまた違う、何とも甘ったるい良い匂いが漂ってくる。
いったい、何を企んでいるんだ、この人は?
「そう」
夫人は小さく口にすると、
「ところで、あなたに一つ、ご相談したいことがあるの」
「そ、相談、ですか? 何でしょう?」
「……うちの社長と会社に関する、重要な相談よ」
「はぁ……?」
いや、そんな重要な話を俺にされても困るんだが――
「お話、聞いてくれるかしら?」
妙に甘えたような声で言われて、俺はどう答えたものか非常に迷った。
明らかに怪しい。
この人、絶対に何か企んでるぞ。
けど、社長夫人だしなぁ……
ここで変に断って、あとあと今の商談に問題が生じるのも困るし――
「わ、私で宜しければ……」
仕方がなく、断腸の思いで返事する。
「そう? 良かった!」
夫人は言ってにっこり笑い、どこからか一枚の紙片を取り出すと、
「――今夜、このお店でお待ちしていますわ」
すっと俺のスーツの胸ポケットに、その紙片を差し込んだ。
「それじゃぁ、また後ほど……」
言って社長室から去っていく社長夫人。
俺はただ、不安と恐怖に怯えながら、その後ろ姿を見送った。
こ、こえー……