「……わたしは、信者じゃない!」
そう、それでもわたしは従わなかった。
間違いを繰り返したくなかったのも理由だが、シュブ=ニグラスはいわば自然の法則のようなものだ。人工の社会でなければ成立しない問題はどうにか防ぐ手立てもあるが、ありのままの自然な状態にあるだけで人に危害を及ぼせるような力を同じ人間に利用させてしまったら、いざ自分がそれによって不利益を被っても文句を言えなければ予防する手段さえもなくなってしまう。ここまでの経験によって、そう思考したのだった。
かくして、信者でないことを公言するや、シュブ=ニグラスの黒い仔山羊は動きだし、頭上に逆立つ触手の数本を目にも留まらぬ速度で教祖に巻き付けたのだ。
彼女がどうなったのかは知らない。わたしたちは、教祖が断末魔の悲鳴を上げながら宙に持ち上げられ、天高く彼らの母のほうへと捧げられるところまでしか見なかったからだ。
わたしとキャサリンとシンディは、動転して逃げ惑いだした信者たちの不意を突き、ボブと一緒に彼の車に移り、命からがら森を脱出したのだった。
自動車が走りだした当初は、助けを求めて窓に縋り付く信者や車体に纏わり付く黒い仔山羊の触手も視界の端に窺え、おそらくそれと同様のものがルーフやトランクを叩く音もした。後ろの窓は割れ、そこに乗っていたシンディが金切り声を上げるとキャサリンが庇うように覆い被さったりもしたが、彼女たちも助手席のわたしも運転席のボブもかすり傷程度で済んだ。
信者たちがどうなったのかも不明だが、パニックでドアを開ける余裕もなかった。だが人々を置いてきたことへの後悔と背後への畏怖から、わたしたちは見返ることもできなかったのだ。
それでも狂乱はいつしか過ぎ去り、車内にはSUVの走行音のみが聞こえるようになっていった。ついにボブたちは森を出るまで後方を確認しなかったそうだが、実はわたしはこのとき、一瞬だけバックミラーを覗いてしまっていたのである。
そこでは、とてつもない異変が起きていた。
夕闇の空。遠方の森の上のやけに低い位置に、奇妙に脈動する巨大な黒雲があり、そこからは稲妻にも似た黒い線が豪雨の如き勢いで地面へと伸びては本体に戻り、帰る際にはそれぞれが、先端にもがき苦しむ人型の影を抱き締めて雲に呑み込んでいたのだった。
そうした脅威から目線を道路に戻したとき、シンディが囁いた言葉は忘れられない。彼女はこう言ったのだ。
「悲しい……、あの人たちだって、あたしたちと同じなのに……」
そうなのだ。他人が恐ろしい行いをしたとき、我々はその人物の特異性を強調し、自分たちとは違う異常者だとすることで安心したがる。ところが現実として、人がしたことは人がしたことでしかない。生物学的になんら差異はない、全人類がそういうことをしうるのだ。それを自覚していなければ、肩書きや権威にごまかされて本当に非難すべき行為をしている者を見逃し、ただ怪しいだけの無実の者を疑ってしまうかもしれない。
とにかく、あの出来事から数年もの時が流れたが、あれ以来シュブ=ニグラスや彼女の信徒による襲撃はない。
教祖の警告ははったりだったのかもしれないし、平穏な日常に帰還できたわけだが、わたしはキャサリンにしか虚偽記憶を作っていないはずが、その一つの例外を嗅ぎ付けた普通の治療をした患者からも信頼できないとして訴えられ、代償を支払わされた。キャサリンもまた、彼女が怪しげなカルトと関わっていたことを別れた夫に感付かれたらしく、結果としてまだシンディと暮らせているものの一時期は親権を巡ってボブも巻き込んで揉めた。そして現在でも時折、わたしたちはあの事件への不安を感じずにはいられなくなってしまった。なぜなら、千匹の仔を孕みし森の黒山羊の影は、未だにわたしたちを含む人間の愚かさに垣間見えるからだ。
もし、どうしてそれが悪なのか論理的な説明ができないまま悪に違いないと盲信してしまっている対象があるのなら、そのものに対して、我々はすでにテンプル騎士団をはめた国王や教皇らや、魔女と呼ばれた人々を不当に裁いた裁判関係者たちや、キャサリンたちに虚偽記憶を植え付けた医者などと同じ過ちを犯しているのかもしれないのだから。
恐れている悪事は、わたしたちが悪だと思っている相手ではなく、善だと思っている相手によって行われているのかもしれないのだ。どうか偏見や差別や権威や肩書きに囚われず、レッテルや奇麗事を省いて皆同じ人間に過ぎないことを見た上で、わかっている確かな事実をもとに判断して欲しい。
誰もが心の中に、シュブ=ニグラスを住まわせているのだから。