目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
虚実入り混じる儀式

 わたしは絶望したが、仔山羊の足元に意外な人物が立っているのを目にして、一挙に意識を持っていかれた。


「ボブ!」

 それは紛れもなく、あのボブだったのだ。

 彼の背後には見覚えのあるSUVが停車していた。ボブの家にあったものだ。

 彼はその前で黒い仔山羊の足元に立ち、砂で描かれた直径二ヤードほどの円の中にいた。

 円内中央には折り畳み式の小さな丸テーブルがあった。卓上には砂で五芒星が描かれており、それぞれの角には一本ずつ火のついた蝋燭も配置してある。テーブルの中心にはくぼみのある石が置かれ、以外にも、両刃の剣、杯、吊り香炉が載っていた。ボブは黄緑色のローブを着て、両端に六芒星が刺繍された黒いリボンを首の後ろを通して胸の辺りに垂らし、ドングリを糸で繋いだネックレスをしている。


 状況が飲み込めずに、わたしはとっさに大声で救いを求めた。

「ボブ、助けてくれ!」

 ところが戦慄するわたしたちを嘲笑うように、周りの森からは教団の信徒たちが十数人ほど現れてわたしたちを囲み、フードを深く被って顔が窺えないあの女らしき教祖まで出てくるや、彼女はボブに親しげに寄り添ったのだった。

 自動車で引き離したのに、ありえない移動距離である。そういえばボブも、まるでここで止まるのを予期していたような配置だ。シュブ=ニグラスはどこにでも瞬時に現れる能力があるそうだが、これがその加護のためかは不明だった。

「どういう、ことだ……」

 わたしは呟くのがやっとだった。

 ようやく現状を冷静に切り抜けねばならないという気持ちが湧いてきて後部座席を確認したが、キャサリンはさほど取り乱してはいなかった。シンディは混乱している様子だったが、母親に小声で何事かを耳打ちされると、キャサリンの顔を見上げ、やがて落ち着きを取り戻していった。それから二人は、なぜかシートベルトを外した。

「さあボブ」イギリス訛りのある女の声で教祖はボブへと呼び掛けてから、わたしたちのほうを向いた。「あなたを欺き、キャサリンとシンディを連れ去ろうとしたカールを捕らえましたよ。さっそく、裏切り者に鉄槌を下す魔術を披露してください」


 ボブが寝返ったような言い方だったのでわたしはますます困惑したが、後部座席から身を乗り出したキャサリンはこんなことを耳元で囁いたのだった。

「先生、怖かったでしょごめんなさい。でも信じて。お願いだからシートベルトだけ外してじっとしてて。これで教団を退けられるの。本当は見張りのいない帰り道なんてないし、危ない作戦だから打ち明ければあなたが逆に不安になると思って黙ってたのよ」

 切実な懇願にわたしは平静を保とうと努め、指示通りにベルトを外した。すると、ボブは教祖へと明言したのだった。

「……教祖さんよ、残念ながら狙いが外れたな。おれは洗脳されてない、先生もだ。キャサリンも目を覚ました。荒っぽい作戦だが、条件を満たすにはおれの悪い頭ではこういう方法しか閃かなかったんでね」

 途端、教祖は虚をつかれた顔になり、キャサリンは大きな声でボブに賛同した。

「ええ、そうよ。わたしももう信者じゃない!」

 信徒たちがざわめきだし、彼らを見回しながらボブはさらに言った。

「キャサリンのテレビでの失言を見たときから、もしやと思って研究してたんだよ。あの悪魔召喚の呪文もやはり、山羊の頭と伝えられる悪魔を呼び出すものでもあるからな。キャサリンが唱えたように改良すれば、シュブ=ニグラスを召喚できるんじゃないかってな」

「いったいなにを言って……」

 戸惑う教祖の言葉を遮って、ボブは続けた。


「ただしそれ以外にも違う要素があった。シュブ=ニグラスを呼ぶには、ここに用意した通常の魔術道具だけじゃなく、黒い仔山羊も必要らしいってことだ。あんたらが侵入者を見逃さず、追っ手に仔山羊を差し向けることはキャサリンに聞いてたからな。先生には黒い仔山羊を誘き出す役目を担ってもらった。そして、おれは信者になったと見せかけて、教団のために発明した得意の魔術を裏切り者への制裁に使う振りをしたんだ。

 でも実際は、これはシュブ=ニグラスを呼び出す魔術なんだよ。あとは教祖さんたちが、先生はおろかおれやキャサリンすら信仰者として獲得できてないことを奴に告げる。そうすれば問題だろ。おれたちを信者に引き込むのを条件として、教団はシュブ=ニグラスにいろんな利益を授けて貰ったそうだからな。取引が成立してないことがばれたらどうなるかな」


「……ひょっとして!」

 絶叫した教祖を筆頭に、全部の視線が天を仰視した。すると、上空にはあの黒雲のような塊が浮いているのだった。

「ま、待ってくださいシュブ=ニグラスよ!」教祖は恐縮しながら訴え、わたしへと両腕を差し伸べた。「まだ彼は、入信しないことを表明していません。これから同志になるのです」

 ボブが眉を顰めると、教祖は誘惑してきた。

「モンティー、わたしたちに従いなさい。あなたは犯罪者なのですよ。キャサリンたちと戻ったら、訴えられるかもしれません。裏切ったボブやキャサリンはわたしたちが罰するので手遅れですが、あなたにはまだチャンスがあるのです。わたしたちの仲間になれば、たくさんの利益が得られるのですよ。永遠の命も、あなたとあなたの子孫の繁栄も約束される。

 これからは虚偽記憶を作って儲けても女神の力を借りてわたしたちが守るから、誰にも真実を悟られることはないのです。そうやってわたしたちのために生贄を選んでくれさえすればいい。でももしわたしたちの信仰に従わないのなら、永久に我々から逃げながら不安に暮らすことになりますよ。いくら殺しても、シュブ=ニグラスは絶え間なく仔を産むのですから」


 ここに至って、その場にいた全員の運命はわたしに委ねられたようだった。そしてわたしには、教祖の誘いのほうが魅力的だった。キャサリンたちを選んでも得られるものはなく教団に狙われるかもしれないが、教団を選べば身の安全を保障されるばかりか様々な報酬を得られるというのだから。

 かくしてわたしは……。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?