「ママ、あれ……」
シンディの一言を最後に、わたしたちは硬直した。
想像を絶する驚異を視界に収めて、凍り付いたように立ち尽くしたのだ。焚き火を囲む信者たちも黙止し、炎の上に顕現した名状しがたい容貌の驚異を仰いでいた。
それは一見すると、煙の出ない炎よりようやく誕生した黒煙に似ていて、数十ヤードもあろうかという巨体を誇り、空中に木々よりも高く浮遊していた。塊を構成するものは邪悪な獣の体毛のような質感で、一本一本が蛇じみたのたうちをして、同時に幻灯よろしく空気に溶け込んだり消失したりしては、また実体を持って出現するのだった。
上部からは閃光が稲妻の如く天に伸びては消え、あるいは禍々しい湾曲した山羊の角のようになっては、やにわに柔らかそうに変質して、再び黒い塊の内側に戻っていた。同様の動態は下部にもあり、そこから現れたり消えたりしているものは蹄のある山羊の脚部を彷彿とさせた。さらには満身のあちこちに、おおよそ地球上の全生物のあらゆる器官らしき特徴が、唐突に形成されては消え去ったりもしていたのである。
空想を地で行く化け物は、眺めているだけで全身の肌を泡立たせた。
どれほど時間が経過しただろうか。背中のシンディが震えているのを感じて、金縛りにあったようになりながらも、ようやくわたしは呟いた。
「な……なんだあれは……」
そこでキャサリンも、やっと、目覚めたように叫んだ。
「シュブ=ニグラスよ! 逃げないと!」
キャサリンは脂汗を浮かべながらも、わたしのジャケットを引っ張った。我に返ったわたしたちは、大急ぎで自分たちの車の方角へと駆けだしたのだ。
あとは振り返らずに走り続けた。もはや意味のある会話はなかった。背後からなにかが迫ってくる予感から、死に物狂いで足を動かした。永遠のような逃走の果てにやっとセダンへ帰還したときには、すっかり夕暮れが訪れていた。
もう疲労しきって倒れそうだったが、立ち止まるわけにはいかなかった。わたしは運転席に乗り、キャサリンは娘と後ろに乗って、怯えるシンディをあやしていた。
「先生、進むのは前よ」
「わかってる」
キャサリンに指図されて返事をし、エンジンを掛け、来たとき鉄菱を除去した方向に車を発進させた刹那だった。
「おじさん気を付けて、あいつがいる!」
警告を発したのはシンディだ。さっきまで怖がっていたにもかかわらず、それ以上の危険を発見したらしく後部座席から身を乗り出して前方を指差していた。
示す先には車道の脇に立ち並ぶ木々があった。なにかと思うまでもなく、意味を理解させられた。樹木のうちの一本が、歩行しだしたのである。
一見すると、天を衝くように聳える巨木だった。
ただし、葉っぱが一枚もない枯れた木だ。根に相当する部分は土に入っておらず、そこを四つに分けて牢固な蹄のある脚にして道路へ飛び出してきたのだ。胴体も太い幹に似て、樹木の洞のようになっているところに猛獣の牙らしいものを備えた巨大な口があり、上部には木の枝の如く分かれて蠢く触手らしきものが無数に生えている。
ハンドルを大きく切って、進路を妨害したそいつを必死でかわしながらわたしは喚いた。
「ちくしょう! シュブ=ニグラスか?」
「〝シュブ=ニグラスの黒い仔山羊〟よ!」
キャサリンが娘と自分のシートベルトを締めながら教えてくれた。
シュブ=ニグラスの黒い仔山羊もクトゥルフ神話の住人で、名前の通りシュブ=ニグラスが出産するという異形だった。もはやわたしはそれで納得していた。脅威は疑いようもなくそこにいるのだから。
険しい林道に苦戦しつつも、アクセルとギアを駆使してなるべく速く走りながらミラーを覗くと、木はかなりの速度で追ってきていた。真後ろにぴったり付いてくるほどだ。
けれども全力で走行するうちに距離は開き、疲れるという概念があるのか諦めたのか、やがて仔山羊もスピードを緩め、鏡に全身が映るほどに離れると、森へと進路を逸れて潜っていった。
奴がいなくなってもわたしは恐怖のあまり鏡ばかり見て、ろくに前を向けずにしばらく進んだ。キャサリンとシンディも、おそらく同様の理由によって押し黙っていた。やっと進行方向に集中し、再び意味のある声を発することができたのは、大きなカーブに差し掛かったときだった。
「……あんなのが現実にいるなんて」
「これじゃ疑いようはなくなったわね」
鏡を覗くと、キャサリンは引き攣った笑みで言っていた。もちろんこの状況で否定などできようはずもない。
「信じるよ、文句はない」
返答した瞬間だった。
目の前の森から、またも黒い仔山羊が飛び出したのだ。今度は二体、左右からだ。そいつらが並んで道路は完全に塞がれたが、わたしは路肩まで使ってやり過ごそうとした。
ところが脇を掠める際に、伸ばされてきた逞しい枝にボンネットを叩かれて試みは失敗してしまった。バランスを崩した車体は道を逸れ、女性たちの悲鳴に車内を満たされながら数ヤード進んで大木に衝突した。
だが助手席の窓が粉砕した程度で、ほとんど衝撃は受けずに吸収されるようにして車は停止していた。
理由はすぐに判明した。
顔を上げると、目前の樹木もシュブ=ニグラスの黒い仔山羊だったのだ。そいつが、木の枝のような触腕を幾本も差し伸べて、自動車を包むように受け止めていたのである。奴はすぐに枝を引っ込めたが、退散するつもりはないらしかった。