「なんだって?」
衝撃的な発言に、助手席の横顔を見た。そのまま、ちょうど差し掛かったダイナーの駐車場に乗り入れて停車し、キャサリンに顔を寄せて問い質す。
「まさか、そこまでの冗談は言わないよな」
「言うわけないでしょ!」
彼女は動じずに、真剣な瞳で見返してきた。しばらく視線をぶつけ合ったが、その限りでは真面目なようだった。また、娘に偽の証言をさせたからといって彼女がシンディを愛しているようだったのは知っていたので、そこまで狂ってはいないと信じたくもあった。
そしてキャサリンは、伏し目になって声を曇らせ、核心に迫ったのである。
「……シンディが誘拐されて、人質に取られてるの」
「いったい誰がそんな?」
「〝シュブ=ニグラスの人の子ら〟よ」
彼女は説明を始めた。それによると、わたしに虚偽記憶を作られたあと、キャサリンはある新宗教の勧誘を受けたそうだ。
彼らは先ほどのボブが話したような内容を語り、キャサリンの抑圧された記憶が紛いものであることを気付かせたという。そうした上で、ただしシュブ=ニグラスのような神は実在するとして、彼らが崇めるその神が生贄を欲しており自分たち以外の人々に自らそれを捧げさせるよう仕向ける助力となってほしいと頼んできたらしい。その連中、〝シュブ=ニグラスの人の子ら教団〟は、この一連のモラル・パニックを引き起こしたわたしのような医者などに復讐をしようとも誘ったらしく、さらには、生贄を与えさえすればシュブ=ニグラスは見返りをくれるとも述べたという。
「生贄だって? まさか!」
シンディを案じて焦ったが、キャサリンは暗い表情になるもこちらの危惧を打ち消した。
「変な想像しないで、教祖のお蔭で見返りに娘の喘息をよくしてもらったのよ」
「……どうにせよ、信じ難いが」
数えるほどしかシンディとは会ったことがなかったが、ちょうど酷い発作を起こしたときも目撃していたので、疑わしい証言だった。
「本当よ! 医者も奇跡だと言ったわ。だからあの子にも、幼稚園で虐待されたっていう嘘をつかせて協力させてた」
強い語勢で意見したキャサリンは、再び声を曇らせる。
「じゃあ、生贄は幼稚園関係者ってことか」
「シュブ=ニグラスはあまねく生命を生み支配する、母なる大地を体現した神。だから生命力を操れるらしいの」
彼女は問いには答えず続けた。
「実際、教団は森の木々に守られて自給自足の生活をしてたけど、そこでは作物も家畜も驚くほどの速度で急成長して、豊富で、新鮮だった。信者も常に健康で、病気になる人もいなかったし、怪我なんて嘘みたいにすぐ治ったわ。子供の発育はいいし、老人はいつまでも若々しかった。事実かどうかは確認できなかったけど、百年以上生きてるって自称するのに、外見は五、六十歳くらいの人までいた。教祖に到っては不老不死で、数百年生きてて、自分はシュブ=ニグラスの眷族にしか殺せないとさえ息巻いてたわ。
……豊穣は、地母神による典型的な恵みとされる。でも、生き物は食物連鎖によって別の生き物の命をもらわねばならない。だから教団が恵みを得るには、代償が必要になるというの。シュブ=ニグラス自身の意図も、そもそも意思があるのかさえもわからないけど、これまで繰り返されてきた既存の種の大絶滅と新種の繁栄の流れも彼女の仕業で、今度は人間同士を争わせて死滅させ、次代の種を栄えさせようとしているそうよ。教祖はその仕組みを利用する術を見出したと言ってたわ。だから命を奪う役割を他の人間たちの愚かな争いに肩代わりさせて、淘汰すべき対象を選定することで、引き換えに育まれる恩恵を教団が受けられるというの。彼女によれば、テンプル騎士団の解体も魔女狩りも、こうした仕組みを見抜いた人々によって行われてきたらしいわ。全人類の集合的無意識に通じるシュブ=ニグラスの力添えがあったからこそ、あなたの住所も調べられたのや」
こちらの反応を窺うように間を空けたが、そのまましばらく会話は途切れてしまった。
住所を調べる手段など労力を惜しまなければいくらでもあるだろうし、常識で測れば到底信じられる話ではなかった。
しかし、わたしは彼女のかかりつけの医者として内面をかなり把握してきたつもりでいた。キャサリンが他者には漏らさないであろう秘密も、カウンセラーとして聞いてきたのだから。故にたとえ、もはや伯父にか宗教にかもわからなくなっていたが、とにかくキャサリンがどこかから洗脳を受けていたとしても、こんな嘘をつく人間とは思えなかったのだ。
現に、ボブ宅にはシンディの姿がなかったし、キャサリンが娘を心配している様子も芝居ではなさそうだった。だいたい彼女らの言うことを聞かねば訴えると脅されている上に、危惧してもシンディの情報を入手する手掛かりは彼女かボブくらいにしかありそうもなかった。だから、騙された振りをしてでもちょっとずつ探りを入れてみようと、わたしはあえて彼女の主張を受け入れることにする。
そんな風に思考していたとき、キャサリンが不安げな眼差しをこちらに注いでいることに感付いたので、わたしは早口でごまかした。
「とりあえず、信用するよ。どのみちわたしに選択肢はないし、君はこんな嘘をつかないはずだ」
それから、気を落ち着けるために一息ついてから尋ねた。
「それで、その教団に協力してた君がどうして娘を人質にされたりしたんだ」
するとキャサリンは、重い罪でも懺悔するかのように開口したのだった。
「あなたもさっき指摘したことよ。あのテレビに出た日、わたしはミスを犯した。当時は教団に夢中だったから、呪文を唱えるうちに陶酔してきて思わずシュブ=ニグラスの異名を口にしてしまったの。ある意味で間違いではないんだけど、世間的には想像上の神性とされるわ。あんなことを口走ったら抑圧された記憶自体が疑われかねない。そしたら、教団の計画も失敗する。だから娘を人質にされて、過ちの償いをするように強要されたの」
「償いって?」
「家族を勧誘することよ。わたしにとって教団に入信してくれそうな身内はボブ伯父さんしか思い当たらなかった、異教の信仰に理解があったから。それで会いに行ったんだけど、伯父さんは普段の魔術研究のお蔭でかなり昔からシュブ=ニグラスの存在を感知してて、おまじないで逆にわたしの洗脳を解いてくれたの。雪山に住んでるのも、あまねく生命に影響を及ぼすシュブ=ニグラスを用心しながらも研究するために、生き物の数が限られる環境を求めた結果だそうよ。
そして伯父さんは洗脳された振りをしながら教団の内情を探って、警察などを動かせるような活動の証拠をつかみたいって提案してきたんだけど、教団も洗脳されてたときにわたしが教えた情報から伯父さんに警戒したらしいわ。入信の条件として彼に、利用価値がありそうなあなたを勧誘するようにと要求してきたの」
驚いたわたしは、よく考えもせずに叫んでしまった。
「じゃあこれは勧誘か? 脅して無理やり……」
「ちゃんと聞いてた?」呆れたようにキャサリンは言った。「伯父さんは洗脳されてないし、わたしも目は覚めたわ。もう教団は信じてない」
そういえばそんな会話の流れだったので、頭の中を整理するためにやや間を置いてから頷いた。
「……あ、ああそうか、ということは……」
「あなたには洗脳された振りをして欲しいの。そして二人で教団のいる場所に戻って、隙を突いてシンディを連れ出して逃げるのよ。彼らは追ってくるでしょうけど、ついでに教団を潰せる証拠でも持ち帰れれば牽制できるし、倒すこともできるわ」
彼女は極めて真剣に頼んできていた。
わたしはまだ半信半疑だったが、シュブ=ニグラスの件を除けばありえなくもない内容に聞こえたし、彼女への負い目や、シンディのことなどの気掛かりな点もあった。また、キャサリンとボブからの脅しによって従うしかないこともあって、とりあえず指図された通りにしてみることにしたのだった。