だからアイダホスプリングスを出てボブの脅威が遠のくと、わたしは真っ先に切り出したのだった。
「キャサリン、伯父さんの家からはもうだいぶ離れた。いいかげん正気に戻ってくれないか。まず、シンディはどうしたんだ?」
するとキャサリンは苦しげに抗議した。
「説明するから黙ってて」それから彼女は携帯電話を取り出して、わたしの前に翳した。「道中では伯父さんと定期的に連絡を取ることにしてるの。電話での反応が変ならすぐにあなたを訴えるわよ。音信が途絶えても同じ、わたしたちの話を否定するのも同様の結果を招くから注意して。……シンディについても、いずれ教えるわ」
こう言われては、話題を切り替えるしかなかった。せめて真実に近づこうと、無難な問いを発するに留める。
「じゃあ、どこに向かうんだ。道順を教えてくれなきゃどうにもならない」
「空港よ」
「空港だって?」
わたしは彼女の横顔にがなったが、キャサリンは正面を見据えたままぶっきらぼうに言った。
「ワシントン州に飛ぶのよ」
聞いてうんざりしてきたわたしは、彼女の視界の端に映るようにわざと大げさに頭を振って溜息をついた。
「なるほど、〝森の黒山羊〟がいるから森林を目指すわけか」
「動植物が豊富だからよ」
ここら辺になるとこちらも苛々してきて、つい語気が荒くなった。
「ああ、シュブ=ニグラスは産む性としての地母神や太母神の影響を受けた神性だったな。千匹の仔を孕む森の黒山羊。絶え間なく子供を産み続ける女神か、リリスのように。豊穣の女神でもあったな、なら環境保護にもなって地球に優しい便利な神じゃないか」
「環境保護が地球に優しいですって?」
キャサリンは、意外な点に着目して失笑した。
「なにを寝惚けたこと言ってるのよ。環境保護なんて人間のためでしかないわ」
怪訝に思ってキャサリンを一瞥したが、カーブに差し掛かったのですぐに前方に顔を戻さねばならなかった。
「地球にとっては人類がいようがいまいがどうでもいいの。星にはそういう感情すらない。人間じゃないどころか動物ですらない、ただの物体なんだから」彼女は怒りを込めて熱弁を振るった。「なのに人間は環境保護を訴えるとき、やたらと地球を擬人化したがるわ。地球が悲鳴を上げてるとか、地球が死にかけてるとか。生物がいないことが悲劇的なことなら、現在観測できるどの星にも生き物がいる痕跡がないんだから、地球以外の全ての星を哀れまなきゃいけないじゃないの。星に人間みたいな感情があるように語るなら、むしろ今のところ唯一生命がいる地球こそ異常な状態の可哀想な惑星だということになるわ。だいたい、地球は過去何度も自然に大量絶滅を引き起こしてるのよ」
これは事実だった。
現代では地層の分析などで、往事に何度か地球全土に及ぶ規模の大量絶滅が起きていたことが解明されている。有名なのは恐竜の絶滅だが、それ以外にも当時地球上を支配していた生物を一挙に死滅させてしまうような大異変が発生した痕跡が、大地には記録されているのだ。
キャサリンは続けた。
「人間もそんな自然の生んだ動物に過ぎないんだから、人による大絶滅も自然の仕業に過ぎないじゃない。過去、自然に起きた大量絶滅には現在人間が引き起こしてるいくつかの種の絶滅なんかより遥かに大きいスケールのものがあったのよ。それでも、いったん地球を支配した生物が滅びたあとで次の種が栄えただけ、完全に生物が死に絶えたことなんてなかった。たとえ地球上から生物が完全に消え失せて新たな種も誕生しなかったとしても、他の全ての惑星と同じ状態になるだけよ。地球はなんにも困りはしない、そんな感情すらないんだから。動物実験の対象や食肉にされる家畜たちが今の環境を守ろうなんて言った?
現今の環境が人間にとって都合がいいだけで、環境保護の本質は人間が絶滅したくないから人間にとって都合がいいこの環境を維持しようということでしかないの。なのに善人ぶりたがる人類は事実を認めず、誰かのためにやってるんだという偽善を撒き散らさずにはいられないのよ。そういう姿勢が、人のためにしかなりようがない環境保護のために人を傷つけるという本末転倒のエコテロリストのような連中を生み出して、かえって本来必要な環境保護を非効率なものにしてるんだわ」
わたしがキャサリンの主張に圧倒されていると、彼女はさらにまくしたてた。
「ね、共通してるでしょ。自分たちのためでしかない環境保護を、地球のためだということにしたがる環境テロリスト。テンプル騎士団の財産が欲しいだけなのに、神のためだということにして騎士団を潰したフランス国王やローマ教皇たち。異質なものを排除したいだけなのに、邪悪な魔女を狩っていることにしたがった人々。不安や恐怖を過去になにかがあったせいだということにしたいがために虚偽記憶を作ったわたしたちや、利用したあなた達。みんな同じ。
そういう人間の偽善の影に、集合的無意識に影響を及ぼすシュブ=ニグラスがいるのよ。だから、過激な環境保護には地球を母なる大地に喩えた場合の地母神として、テンプル騎士団の解体や魔女狩りにはバフォメットとして、虚偽記憶には悪魔的な儀式を取り仕切る悪魔として、シュブ=ニグラスの片鱗がちらついてるの」
「……興味深い分析ではある」
納得しかけて呟いてしまったが、彼女の話を立証する証拠は相変わらず乏しいことと、そんなキャサリンの言動に付き合わされている現状から逃れたがっていた自分を思い出して、慌てて指摘した。
「でも待ってくれよ。仮に、仮にだ。君やボブの信じてるようなことが実際に起きていたとして、この先にその事実を示す証拠があったとしよう。それでなぜ、こんなことまでして君はそんな話を信じさせたいんだ。言い分を聞く限りだと、バフォメットだかシュブ=ニグラスだかわからないけど、とにかくそいつのしてることは君も嫌ってるようだが、一緒にそれと戦えってことか? だったら軍か警察か、FBIのモルダー捜査官にでも依頼したほうがいいんじゃないか。だいたい前にテレビで見たときは、君こそそいつの策略に協力してるようだったぞ」
「もとはといえば誰のせいよ」
キャサリンは不機嫌そうにこちらを睨みながら非難した。彼女の不満は正当だ。全てが真実ならば、キャサリンの心にシュブ=ニグラスの付け入る隙を作ったのはわたしということになるのだから。でなくても偽の記憶を与えたのは事実なので、そこで改めて謝った。
「いや、だからすまない。あれは本当にわたしの過ちだった」
「それに!」
しかし、こちらの謝罪などほとんど聞かずに彼女が大声で付言してきたために次はどんな批判をされるのかと緊張したが、キャサリンが口にしたのは意外な台詞だった。
「シンディを助けなきゃいけない」