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脈動する不穏

「そんなこと」

 さすがにわたしは鼻で笑ったが、なぜか本気では笑いきれずに、引き攣った笑みになってしまった。ボブも険しい表情のままだったので、やや黙考したあと、口蓋に溜まった重たい唾を飲み込んでから苦労して声を出した。

「……H・P・ラヴクラフトの創作神話が事実に基づくものだと?」


「そうじゃないかね。テンプル騎士団、魔女狩り、虚偽記憶、役割は同じだろう。人間が自身の偏見や差別心を神やら悪魔やらといった別のもののせいにして同胞を迫害するとき、こいつは集合的無意識に現れるんだ。ラヴクラフトの創作神話に登場する怪物たちは、著者が感じた恐怖を邪神として書き留めたものだという。だから彼も、人間の無意識下に眠っているシュブ=ニグラスを感じたんだよ」


 沈黙が訪れた。

 わたしはよく模索してから開口すべきだと思ったが、どう努力してもボブのとんでもない講義は信じきれそうになかったので、両の手をテーブルの上に軽く置いて無難な回答をするだけに留めた。

「どう受け取ればいいのか、ちょっとわかりかねますね」

 ボブは、やはりといった調子で肩を竦める。

「まあ、見ることは信じることだ。事実は自分で確認するといい」

「ええと。ですが、いったいどうやって?」

 そこまで発声したときだった。


「わたしが案内するわ、先生」


 覚えのある声が呼びかけてきて、ボブの背後に見覚えのある人影を捕捉し、驚愕した。

「キャサリン!」

 そこに彼女がいたのだ。

 リビングとキッチンの狭間を部屋の高さの下半分ほど区切る棚の陰から立ち上がり、顔を出したのである。どうやら、後ろに屈んで隠れながら会話を静聴していたらしい。

 ボブは承知していたようで、振り返りもせずに言った。

「あとはキャシーが説明する」

 述べるなり彼は、自分のココアを飲み干すとカップを持ったまま席を立って流しに向かい、入れ代わるようにキャサリンがこちらにやって来た。

 彼女は真っ黒なワンピースに身を包み、白いカーディガンを羽織っており、そこにライトブラウンの長髪がよく映えていた。キャサリンがさっきまでボブのいた席に着いたところで、驚いて固まっていたわたしはようやく我に返ることができた。

「……どうなってるんだキャサリン、手の込んだ冗談か?」

「全部、伯父さんから聞いた通りよ」キャサリンは座席に深く腰掛けながら言った。「シュブ=ニグラスが実在する証拠を、その目で見てもらうわ」


 陶器が擦れ、水が流れる音がした。キャサリンの後方に目をやると、キッチンの流し台に溜まっていたと推察できる食器をボブが洗いだしたところだった。こちらと対面する形のオープンキッチンだが、棚を挟んで奥にあるスペースには食卓らしき小さなテーブルと付属した椅子もあり、そのさらに向こうに流しは位置していて、彼は目線を手元に落としていた。

 チャンスと判断したわたしは、ボブを僅かに警戒しつつもテーブルの上に身を乗り出して、キャサリンへと危惧していたことを小声で打ち明けた。


「わたしのしたことは本当にすまなかった。けれども失礼だが、ボブ伯父さんはまともじゃないんじゃないのか。君がその、……妄想と決別したいなら、あの伯父さんといるのはたぶんよくない。助けが必要なら力になれるはずだ。わたしはもう信頼できないだろうから、知人の別の医者を紹介してもいい」

「わかってないわね先生」キャサリンはあきれたように頭を振ってから、ものすごい剣幕で訴えてきた。「やっぱり事実を見てもらうしか信じてもらえる方法はなさそうだから、無理にでも一緒に来てもらうわ。従ってくれないなら、手紙の通りに訴訟を起こします。伯父さんも協力してくれるそうだから、覚悟してね」

「もういいだろう」

 わたしが圧倒されているところに、口を挟んできたのはボブだった。水道と食器の奏でる音色はいつの間にか止んでいて、彼は濡れた手をキッチンタオルで拭っていた。そしてボブを振り返ったキャサリと意味深な目配せを交わしてから、改めてわたしに着目するや、険しい顔付きとなって警告したのである。

「だが、あくまでキャシーは案内するだけだ。いいな、先生」


 数十分後、わたしは帰り道に愛車を走らせていた。行きと違うのは助手席にキャサリンがいることだった。

 そういえば、ここから体験することになった奇怪な出来事の予兆かどうかは不明ながら、このとき車に乗る際に、一瞬、サイドミラーが後方の道路の真ん中に立つ、白くたくましいマウンテンゴートを映したのを覚えている。そこらの土地に詳しくなかったわたしは、町中にまであんな動物が来るのだな、という程度の感想しか抱かなかったが、直視して確かめようと振り返ったとき、そいつがもうどこにも見当たらなかったのはおかしな現象だった。


 ともかく、わたしはキャサリンたちの要求に応じるはめになったのである。でなければ裁判を起こすというのだから仕方がなかった。そして、それを見逃してもらう代わりに要求される条件の詳細は、この道中で説明するとだけ告げられて、町を出るようにと指図されたのだった。ただ、これは好都合でもあった。あの体格のいいボブと喧嘩になる危険から逃れられたのだ。キャサリンだけなら説得し、目を覚まさせられるだろうという自信が、この時点ではまだあったのである。

 ただし、新たな危惧も生まれていた。彼女の子供、シンディのことが気掛かりだったのだ。シンディは喘息を患っており、かつてのキャサリンは彼女を溺愛していたが、自分の娘にまで虚偽記憶を生み出したであろうと思われたこのときのキャサリンが正常な状態かどうかは怪しかったので、安否を憂いていたのである。だが、まだ自分の記憶にあるキャサリンの人柄への信頼があったので、それ以上の虐待はされていないだろうし娘は母親と共にいるだろうと、ボブ宅を訪ねるまでは捉えていた。ところがあの家に着いてから出るまでの間、シンディは姿を現さなかったのだ。

 キャサリンが車に持ち込んだ二人分のショルダーバックとバックパックに旅行道具みたいな荷物を詰めているのを待たされているときに、トイレを借りる振りをして少々屋内を歩き回ってもみたが、それでもあの子とは出会えなかった。それどころかキャサリンもボブもシンディについて言及せず、もしそのことを尋ねようものなら恐ろしい回答が返ってきそうな雰囲気さえあったのである。

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