それでもわたしは彼の居所までは聞かされていなかったが、丁寧なことに手紙には道順を記した地図まで同封されていたので、迷わずボブの家を目指すことができた。正確にはデンバーからI―70を西に走って到着する、エバンスの麓アイダホスプリングスの町だった。その郊外に建つ、モダンな平屋の家屋に彼はいた。
駐車場にあったSUV車の隣に愛車のセダンを停め、玄関の扉をノックしてからコート下のスーツの襟を正しながら一分近く待った。
ようやく出てきた住人は、熊を髣髴とさせる年配の巨漢だった。灰色の髪やひげを伸ばし、鼻の横にできものがあり、セーターにジーンズ姿である。
「誰だあんた?」
いきなりのご挨拶に面食らったが、名乗らねばならなかった。
「ええと、わたしはカール・モンゴメリーといいます。キャサリン・バートンさんはいらっしゃいますか?」
すると彼は、訝しげにこちらの革靴から茶髪までを眺めてきた。
この間に後悔しだしていた。もう少し警戒すべきだったのかもしれないと。おそらく彼がボブだろうが、キャサリンは自分のされたことを話しているだろうと予測できたからだ。相手は力強そうであり、変人と評される人物である。ともすれば、彼女は私刑に処するつもりで招いたのではないかと案じたのだ。
だが対策を練る暇もなく、彼は発言した。
「医者のカールか、あの子から聞いてる。おれはボブだ」
自己紹介もそこそこに、ボブはわたしのロングコートの襟元をむんずとつかんで屋内に引っ張り込んだ。
心配していたのとは裏腹に、後の応対はごく親切なものだった。一体化したLDKのリビングルームに背中を押されて導かれたわたしは、高級なカーペットが敷かれたそこで、書棚を挟んで流しと向き合うソファーに座らされると、マシュマロを浮かべた温かいココアでもてなされた。
こちらの戸惑いをよそに、ボブはテーブル対岸にある古今東西の呪術的世界について記された書物が犇く本棚を背にした座席に掛け、自分のぶんのココアを一口啜るなり切り出してきた。
「あの子、キャシーは奥に隠れてる。ちょいとしたわけがあってな」
隠れる意味がわからず、しかもそれを明かすことに不可解さを覚えながらも、わたしはとりあえず言った。
「会えないのですか?」
「まず話がある。あんたカウンセラーだよな、なら集合的無意識は知ってるだろう?」
集合的無意識とは、フロイトと一時期親しくしていた心理学者、カール・ユングが提唱した概念だった。極度に簡略化して解説すれば、人の無意識下には人類という種に共通する意識的傾向があるというものだ。
ユングがこの説に至ったきっかけとして、よく語られる事例がある。
彼が勤務していた精神病院での出来事だそうだ。
そこに入院していたパラノイア性分裂病患者が、ある日太陽を眺めながら頭を左右に動かしていたという。不思議がったユングがなにをしているのか尋ねると、患者は「太陽にペニスが下がっていて、自分が頭を動かすとペニスが同様に動き、風が吹く」と答え、ユングにそれが見えないことを訝ったそうだ。この妄想に興味を持って記録していたユングは、四年後に出版されたギリシャ語によるミトラ教の経典に、〝太陽から筒が下がっており、これが西を向けば東風が吹き、東を向けば西風が吹く〟なる記述を偶然発見して驚いたという。患者はギリシャ語も読めず、当時はまだそんな情報を仕入れる手段は少なく、そうしたことを学ぶのは健康な人にも難しかったのだから。
そこでユングは、むしろ精神病の患者が通常の精神状態ではないが故に、無意識下で人類全体の心に影響しているイメージを感じることができ、これを証言し、また古代の人々も、そのようにして感知したものを神話や伝説として書き留めていたのではないかと発想の転換をしたのである。
確かに、世界各地の神話や伝説には他にも、発祥した地域が異なり、太古にはとても互いを認識する機会がないほどにそれぞれが遠く離れた場所であったにもかかわらず、奇妙な類似が見られるものが存在する。
例えば旧約聖書において人類を滅ぼすために神が洪水をもたらし、ノアの箱船に乗った者だけが生き残る筋書きは、ネイティヴアメリカンにはヒマラヤ杉のカヌーとして語られ、バビロニアにも同様のものがある。
バビロニアには、人間が天に到るほど高く築いたディンギルの塔を神が崩す話もあるが、これは聖書にバベルの塔として記述されている。そんな聖書における先ほどのノアの箱船の洪水だが、エノク書によれば実は天使と人の間に生まれた巨人たちを滅ぼすために神によってもたらされたともいわれており、やはり神々と敵対する巨人についてもあちこちで伝えられているのだ。北欧神話にもギリシャ神話にも巨人族がいる。
そしてギリシャ神話には、主要な神の弟の無礼に怒った女神が岩屋に閉じこもったために地上が滅びかけ神々がどうにか説得するものや、死んだ妻を生き返らせるために夫が冥府に迎えに向かうものの失敗する説話などの、日本神話と似通ったエピソードがあることで有名だ。
ともかく、こんなものはわたしからすれば民族の移動や物語の伝播によって神話が広まったものとしか思えなかったが、ユングは異なる解釈をしたのだった。かくして彼はこれらの仕組みを利用すれば、精神医学に活かせると捉えたのである。
一方で実際、精神病患者の妄想とミトラ教典の一致のような事例は奇妙であり、これを基盤としたユング心理学がある程度の効果を発揮している以上、ボブを否定しきれなくもあった。それでも、キャサリンとはまるで関係ない話題のようだったので、わたしは苛立ちながら急かした。
「もちろん知っていますが、その集合的無意識がどうかしたのですか」
ボブは問いに答えず、重ねて訊いてきた。
「集合的無意識は、そもそもどこから来るんだ?」
わたしは若干、唖然としたあとで言った。
「……まあ、ユングが正しいとすれば、人類の無意識下に共通する――」
「だからなんで、そんなイメージが人類の無意識下に共通してあるかって話だ」
こちらの言葉を遮って彼は発言し、膝の上で両手の平を組んで、やや前のめりになった。
「どうして今の形の集合的無意識でなくてはならないのか、なぜ別な形にならなかったのか、その必然性はどこからきたのか、ってことだよ」
そこまで口にするとさらにボブは、わたしの心境を読むように付言したのだった。
「忠告しておくが、これはあの子からあんたに話すよう頼まれたことだ。答えてくれなきゃキャシーは会わないそうだ。取り引きも破談になる」
こう聞いては応じざるを得なかった。だからわたしは、マシュマロが溶けかけたココアを少々啜ってから、仕方なく彼に付き合うことに決めた。
「つまりあなたは、集合的無意識が現在の状態なのにはなんらかの必然性があるとお考えなわけですか」
ボブが言わんとしていることは推測できた。
「ああ、神による必然性だよ」
返答は予想通りだったが、先はちょっと違っていた。
「あんた、ユングが集合的無意識の発想を得たきっかけも知ってるよな」
わたしは頷いた。さっきの、精神病患者の妄想とミトラ教の経典が一致していた件についてだからだ。
「だったらわかるだろう」ボブは続けた。「太陽から棒が下がってて風が吹くなんていう無意識のイメージが、人類全体に共通してあることに、どんな意味があるんだ。なぜ他のイメージでなく、そんなイメージである必要がある? 当の人間本人に理解しがたい集合的無意識が我々にあるなら、人以外の意味がわかるものが我々にそれを植え付けたと推定することもできるだろう。そいつが神でなくてなんだ」
どうにか反論をしたかったが、わたしは言葉を失ってしまった。集合的無意識が実在するとすれば、現今の形でなければならない必然性は事実として不明だからだ。神の仕業とはしなくとも、我々を生み出した宇宙によるものとはいえるかもしれない。
そんな思索に耽っていると、ボブはあのことについても触れてきたのだった。
「じゃあバフォメットって聞いたことあるか」
「バフォメット?」
これも既知のことだったが、会話とは無関係に感じたのでわたしは頓狂な声を上げてしまった。
「テンプル騎士団が崇拝したっていう悪魔で、山羊に似た――」
「ああ、知ってる。知ってますよ」
だからボブが説明しだしたところで、ようやくそう言った。すると彼はこんなことを語りだしたのだ。
「そうか。ならあれも、集合的無意識が生み出したものとは思わないか? ああいう悪魔的なイメージは魔女狩りにも用いられ、現代にまで伝わってる。無論、悪魔教やそれと結び付けられた性的虐待の虚偽記憶にも関連してるが、そもそも悪魔がなぜ山羊なんだ。集合的無意識によるものだからじゃないか?」
民俗学上、悪魔に山羊の姿が取り入れられたのは、キリスト教の価値観にそぐわず異教の神であり半人半獣の有角神というわかりやすい性質を有するサテュロスやパンといった山羊の姿態の農耕神が、敵対する神々として角や蹄や尻尾といった際立つ特徴を持つため、悪魔として描写し貶めるのに適していたからだという。しかし異教の神など星の数ほどもいるし、山羊とは違う動物に似た神もいくらでもいる。それにパンもサテュロスも、キリスト教の価値観ではもちろん本来彼らが属していた神話においてでさえたいして悪いこともしておらず、そんな認識もされていないのだ。なのになぜ、数ある選択肢から山羊が悪魔として選ばれたのだろうか。
わたしは考慮の末に開口にした。
「まあ、悪魔が山羊である必然性はない気はしますね。あなたはようするに、それらが神のようなものによって集合的無意識にもたらされたイメージのせいだと仰りたいのですか」
「そうだとも」ボブはにやりとした。「もっともこれに関しては、太陽のペニスのような意味不明なものじゃなく、理由が推測できる。たぶん、人間にそうしたイメージを与える存在に関係してるんだ」
「もしかして、その神のようなものがそういう姿だと?」
「おそらくな。そして、多くの人間が共通してその姿を認識できるがために、そいつには人によって名前まで付けられてる」
「……バフォメット?」
ボブは真顔になり、静かに頷いてから解答を述べた。
「テンプル騎士団はそう呼んだ。そしてラヴクラフトは、シュブ=ニグラスと呼んだ」