俺はいま、反撃の狼煙をあげるため、ひたすら嫌煙の日々をラクダのように反芻している。
俺が駆け出しの頃、まだまだタバコは安かった。自動販売機の前でポケットを探れば、一箱分くらいの小銭はいつでもあった。しかしいまやその価格は倍々。活動資金を切り崩し手にした小箱には、星のパッケージを覆い隠す『死の警告』。まあ職業柄、この手の脅しには慣れているさ。
いつからか街はどこもかしこも禁煙となった。飲食店。ショッピングセンター。電車やバスなどの交通機関。映画館もそのしかりだ。俺にだって社会性ぐらいはある。上映中はタバコへの衝動を抑え、観賞を終え外へ出ると、ハイライトシーンの主人公さながら一本咥える。しかし路上喫煙禁止の看板が目に飛び込み、点けたばかりを惜しんで火を消す羽目となった。
隙間からは幽かなひかりが差し込んでいる。そこに舞う埃はどこかタバコの煙のようで、俺の舌と咽は痺れた。電子タバコでもいいから吸いたい。クソ、奴ら随分きつく締めやがって。指先の感覚がなくなってきやがった。はやくここから抜け出さなければ、脅しではなく本当に死ぬ。そのためにも回顧だ、回顧するんだ。手足の自由が効かないぶん、頭はよく回った。
愛煙家による嫌煙の走馬灯は続いた。冷たい壁にマスク姿の群衆が浮かぶ。流行感冒のさなか、我らの救いだった喫煙所はことごとく閉鎖され、同好の者たちは追われ散り散りとなった。これを機に足を洗った奴も多いと聞く。時にマスクってやつは表裏がどちらかわかりにくい。まさにメビウスの輪だ。
そんな頃だった。俺の狭い塒にひとりの女が転がり込んできた。スタイルは中の上で七等身だが、マイルドで若葉のような肌艶だった。しかしその女は筋金入りの嫌煙家でもあり、敢え無く俺はベランダへと追いやられた。いま思えば、その隙にパソコンからデータを抜いていたのだろう。それが囚われの身となった顛末だ。無事にここから出られた暁には、ベッドの上で苦い煙を吹き付けてやりたいものだ。
思い返せば俺のスパイとしてのキャリアは、嫌煙の世に追いやられる日々だった。俺達愛煙家の肩身は、本当に狭くなった。押し寄せる嫌煙の波を逃れ、やっとの思いで見つけた安住の地にも、やがて手が入り、また追われる始末。愛煙家は肩身が狭い。本当に肩身が狭い。ホントに、本当に、肩身が、肩身が…。肩…。よし、もう少しだ。もう少しで…。
スルスル。
抜けたー。
愛煙家である俺は、肩身が狭くなったおかげで縄の縛りが緩み、敵のアジトから抜け出すことに成功した。嫌煙の世に感謝をしつつ、我ら愛煙家を追いやった奴らに、たっぷりお返しをしてやろう。すっかりなで肩となってしまったが、愛煙家達の希望と平和はこのだらりと垂れ下がった双肩にかかっているのだ。
尻のポケットで潰れていた貴重な一本。紅く染まったその景色はあの日観た映画のようだ。敵のアジトを包む業火をもらい、俺の咽と肺は熱く燃えた。