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第23話

 英治と華恋が視線を合わせ、急いでeスポーツコーナーの部屋へ向かう。

 騒ぎの中心にいたのは……先程の親子と対峙する一人の男性。子供が尻もちをついたまま涙を流し、母親が声をかけている。そんな彼らに対して怒りを露わにしているのは副社長だった。


 いったい何があったのかと誰かに尋ねようかとも思ったが、視線をずらせばすぐに理由がわかった。

 子供の近くに落ちている割れた水ヨーヨー。そして、小さな水たまり。副社長のズボンと革靴はよく見れば少し濡れていた。


 かなり頭にきているようで顔を真っ赤にして子供を睨みつけている副社長。eスポーツコーナーの担当者はタオルを片手に、子供と副社長を交互に見てはその場でうろうろしていた。


「どうしてくれるんだ! ブランドものなんだぞ!」


 副社長は己の下半身を指さす。その剣幕に、子供がビクリと身体を震わせた。

 子供相手にそれはないと間に入ろうとして、華恋は英治に止められた。

 代わりに英治が副社長の元へと行く。副社長は英治に気づき、片眉を上げた。そして、上下に視線を揺らし表情を変える。


「どうされましたか?」と英治が尋ねた。

 それに対して副社長は「いえ、なに……ちょっとしたトラブルがありましてね」と取り繕った笑みを浮かべる。ただ見ているだけになっている華恋の眉間に皺が寄った。

 おそらく、副社長は今自分が対峙しているのが英治だとは気づいていないのだろう。


「トラブル、ですか?」

 英治が首を傾げると副社長が「ええ」と頷いた。

「この通り、この子供に後ろからぶつかられてしまいましてねえ。もちろん、私も大人ですから子供相手に本気で怒るつもりはありませんよ。ただ……私にも副社長という立場がありまして。このようなトラブルを私以外にもされたら困るんですよ。だから、少々強めに注意していました。……坊や。次からは走らないようにね?」


 そう言って子供に微笑みかける副社長。子供は怒られた時の事がフラッシュバックしたのかひっと息を吞んだ。庇うように母親がさっと子供の前に立つ。副社長の口角がぴくりと動いた。


「随分都合のいい解釈ですね。私は息子の後ろから一部始終を見ていましたが、息子は決して走っていませんでしたよ。そちらが急に足を止め、Uターンをしようとして息子を突き飛ばし、息子は転んだんです」

「お母さん。息子さんを庇いたい気持ちはわかりますがねえ。見えるでしょう? このシミが」

「ええ。濡れていますね。が」


 冷静に返した母親。副社長は己の矛盾に気づいたのか言葉に詰まった。ただ、それも一瞬。次の瞬間には副社長が険しい表情を浮かべていた。副社長が口を開こうとしたその瞬間、どこから現れたのか八木が二人の間に入った。


「なんのつもりかね八木く」

 咎めようとする副社長を無視して八木が頭を下げる。


「申し訳ありませんでした。神岡様」


 副社長の口が閉じる。神岡という苗字はこの会社では一人しかいない。社長だ。副社長の顔色がみるみるうちに変わっていく。自分が泣かせた子供とその母親を見て、震える声で呟いた。


「しゃ、社長のご家族、ですか?」

「ええ」


 母親は真顔で副社長を見据える。副社長は今度こそ言葉を失い、冷や汗を垂らした。代わりに慌てて八木が口を開く。


「ど、どうやら副社長はお二人が社長の家族とは知らなかったようで……知っていたらこのような対応はしなかったと思うのですが」

「も、もちろんです! お顔を見るのが初めてだったので、それで、あの」

「そう。……そんなことより」

「は、はいっ」

「息子が手が痛いと言っているので冷やすものを」

「そ、それはすぐにでも治療をっ『も、森君!』」


 慌ててスマホを取り出し英治を呼び出そうとする副社長。なぜそこで英治なのかと華恋は顔を顰めた。臨時の健康管理室保健室を用意しているのだからそこに連れて行くべきだろう……と思いつつ、副社長はイベント内容の資料にろくに目を通していないのだろうと推測した。

 もしかしたら副社長は英治に責任を押し付けるつもりかもしれない、と警戒する華恋。


『はい』


 英治はイヤホンマイクを通して返事をした。予想外の所から返事が聞こえてきて驚いたのだろう。副社長と八木は目を丸くして、目の前の英治を見つめた。まるで信じられないものを見た時のような表情を浮かべている。

 物言わぬ貝になってしまった二人をスルーし、英治はさっさと行動に移る。


『ここからは俺が対応します』


 二人の返事を待たず、英治は子供の前で膝をついた。子供は割れた水ヨーヨーを見つめ、今も泣いている。手の痛みより水ヨーヨーが割れたことの方が辛いのだろう。

 いつもよりも優しい声色で子供に話しかける英治。


「水ヨーヨー、新しいのと取り替えることもできるぞ」

「……いいの?」

 子供が遠慮がちに尋ねる。英治はすぐに「もちろん」と頷き返した。子供の目が輝く。

「それなら、新しいのと交換したい。それって好きな色選べる?」

「ああ」

「じゃあ僕が好きな青……いやでもやっぱりさっき僕が取ったのと同じ黒がいい」


 英治はちらりと華恋に視線を向けた。それにつられて子供も華恋を見る。華恋は黙ってOKマークを出し、笑顔で頷き返した。華恋が水ヨーヨーの担当だったことを思い出したのだろう。子供の表情が一気に明るくなった。

 英治はもう一度口を開く。


「それじゃあ、新しい水ヨーヨーはあのお姉さんが後で届けてくれるからその間に怪我をしたところを見てもらいにいこうか。歩けそうか?」

「うん」

「そうか。じゃあ、行こう」

「うん!」


 英治は親子を健康管理室へと誘導しながら、ぼそぼそとイヤホンマイクで指示を出す。スムーズな流れに華恋は感心し、頼もしい背中を少しの間だけ見つめ、すぐに踵を返して自分がやるべきことをするために持ち場へと戻った。


 残されたのは呆然と立ちすくむ副社長と八木。そして、男二人に冷たい視線を向ける社員と居合わせた招待客達。我に返った男二人は慌ててその場から逃げ出した。



 ◇



「ありがとうね」

「え?」


 まさか自分がお礼を言われると思っていなかった華恋は驚いて社長夫人を見た。子供は青と黒の水ヨーヨーを両手に持ってご機嫌だ。

 笑顔を取り戻した子供を見つめる社長夫人の目尻は下がっている。――――いいお母さんなんだな。

 ツキン、と華恋の胸が痛んだ。とっくに諦めた期待を振り切るようにして華恋は無理矢理笑みを浮かべた。


「私は何もしてませんよ」

「そんなことないわ。あの子があんなにも喜んでいるんだもの」

「……」


 返す言葉が見つからなかった華恋は無言で子供と英治が話しているのを見つめる。

 意外だった。英治が世話好きなのは知っていたが、ここまでとは。何となく勝手なイメージで英治は子供が苦手だと思っていた。――――また新たな一面を知れた。


 そんなことをぼんやりと考えていたら社長夫人から思わぬ言葉をかけられた。


「あの二人のことなら、きっともう大丈夫よ」

「え?」


 あの二人というのが副社長と八木のことだと気付くのに数秒かかった。そして、華恋がそのことで上の空だと思われたことも。


「社長から聞いたんですか?」

「いいえ。可奈子……あなたから見たら同じ部署の先輩になるのかしら? 塚本 可奈子から聞いたの。ああ、もちろん仕事の詳細までは聞いていないから安心してちょうだい。可奈子から、『このままだと優秀な社員がどんどん辞めていっちゃうわよ』って夫に伝えて欲しいって言われてね。夫は仕事はできるけど人間関係に無頓着なところがあるから。今まで副社長にそこらへんを任せてきたつけが回ってきたのね。とはいえ、私も可奈子だけの意見を聞いて夫に話しちゃったから、一応自分の目でも問題の二人がどういう人物なのかを確かめてみようと思って今回のイベントに参加したのだけれど……聞いていた以上だったわね」


 最後だけ声のトーンが下がる。言いたいことはよくわかる。


「さっき夫に息子のことを話しておいたから、彼らへの印象はさらに下がったはずよ。今後挽回するのは難しいでしょうね。正式な処分については……あなた達からしたら物足りない結果になるかもしれないけど……一応社長なりに考えての判断だから……なんて言われたところで普段外をほっつき歩いてばかりいる社長のことなんて信用できないわよね。そこは夫の自業自得であり、今後の課題ね」

 溜息を吐く社長夫人。華恋は慌てて首を横に振った。

「そ、そんなことないですよ。社長のおかげで会社の業績はずっと上がり続けていますから」

「それはそうかもしれないけど……だからといって社員を蔑ろにしていいわけではないでしょう」


 確かにそれはそうだ。黙り込んだ華恋を見て社長夫人が笑う。


「あなたいいわね」

「え?」

「もっとふわふわした性格なのかと思ったら結構……どうりで可奈子が目をかけてるわけだ。失礼だったかしら」

「いえ。全く」


 見た目で判断されるのはいつものことだ。むしろ、すぐにこうして評価しなおしてくれる人の方が少ない。中には八木のようにいつまでたっても変わらない人もいるのだから。



 ◇



 イベント終了後、待ち合わせて英治と二人で帰る。今日は英治が家まで送ってくれるらしい。


「そういえば、裕子さん達っていつの間に帰ったんだろう?」

「例の騒ぎの時に後ろについてきていた奴らひきつれてどっかいったから、多分そのままま帰ったんじゃないか?」

「え、そうだったんだ。あーお礼だけでも直接言いたかったな」

「……華恋もありがとうな」


 そっと手を繋がれる。華恋は驚いて顔を上げ、微笑んだ。


「いいえー。私が勝手にしたくてしただけだから。……英治さんもありがとうね」


 英治は何も返さなかったが、照れているのは横顔を見ただけでわかった。

 家の前につき、お互い無言になる。

 内心、華恋はドキドキしていた。

 ――――英治さんの『お願い』ってなんだろう。も、もしや今日っ


 ぽん、と華恋の頭に大きな手が乗る。


「そう、緊張するな。何もしないから」

「あっ、う」


 見抜かれていたらしい。華恋は顔を真っ赤にして英治を見上げる。見上げて後悔した。

 ――――やっぱり、今日の英治さん色気がやばいって!


「また、連絡する」

「う、うん」


 どうやら、『お願い』はまた今度らしい。ホッとしたような……残念なような……不思議な気持ちだった。

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