日はすっかり暮れ、皆帰宅している時刻。総務部の灯りはまだついていた。
――――やっぱり。
華恋は差し入れのドリンクを手に、残業中の英治に近づく。
「お疲れ様」
「! お疲れ様で……華恋? 帰ったんじゃなかったのか?」
振り向いた英治が華恋を見て驚いた表情を浮かべる。華恋は微笑んだ。
「うん。でも……戻ってきちゃった」
そう言ってドリンクを英治のデスクの上に置く。
「ありがとう」
「うん。……終わりそう?」
隣の自分の椅子に座り、あえて軽い感じで尋ねる。わかっていたことだが、英治は視線を逸らし、首を横に振った。
「いや、いい案が浮かばなくて……」
「案? 部長からはOKもらって、後は他部署からの返事待ちだったよね?」
「ああ」
「ってことは、反対されたの?」
「……ああ」
くしゃりと長い前髪を掴み、疲れた様に息を吐き出す英治。華恋の目が見開いた。そんな華恋を見て英治が慌てて説明をつけ加える。
「企画そのものが反対されたわけじゃない。ただ……」
「ただ?」
「副社長が小学生以下の子供達の参加には反対だと言って」
「! ああ……」
――――確かにあの副社長なら言いそう。
頭の中に神経質そうな顔が思い浮かぶ。
英治が提案したのは『Open Office Day』。毎年設けられている会社説明会の日にあわせて、社員の家族も招こうというもの。丸一日使ったイベントで、午前中は来訪者達に会社説明をしたり、社員達の普段の仕事ぶりを知ってもらう。午後からは、空いている会議室を利用してヨガ教室やeスポーツの体験、幼い子供達も楽しめるように縁日コーナーを設置して、来訪者や社員が交流できるようにする。
英治さんの案を聞いた時、私は純粋にすごくいい企画だと思った。他の社員や部長もおおむね同じ意見だったと思う。
でも、副社長が反対したということは……。
「太鼓持ち部隊かあ」
軽蔑心を隠しもしない華恋に、英治が苦笑する。何も言わないところを見ると華恋の想像通りだったのだろう。
彼らは副社長が黒といえば白でも黒と言う人達だ。そのおかげで今の役職を得たといっても過言ではない。
「でも、英治さんはその意見を黙って受け入れるつもりはないんだよね?」
「ああ。今回の企画には子供達の存在が必要不可欠だ。うちの社長がよく言っている『未来を担うのは子供や若者達』っていう言葉。あの言葉から着想を得て企画したものだからな」
「そうだったんだ。副社長はそれに気づいてないのかな?」
「……さあ。副社長曰く、『子供達に大人の仕事が理解できるわけがない。遊び半分で社内を荒らされては困る。金と時間の無駄だ』だそうだ。でも、俺はそうは思わない。知る機会をはなから奪っていては何も変わらない。もしかしたら、将来ここに就職したいと思ってくれる子供も中にはいるかもしれないのに。……それに、過去のイベントはどれも幼い子供がいる社員は参加できないようなものばかりだった。社員の為のイベントなのに不公平だろう」
「ええ! まさにその通りよ森君!」
「?! つ、塚田さん?! どうしたんですかこんな時間に!」
静かな総務部に塚田の声がよく響く。華恋は驚いて塚田と同じくらい大きな声を上げてしまった。
塚田は社長の古い知り合いらしく、勤続年数も長い。所謂お局という立ち位置にいる女性だ。お局というと印象悪く聞こえるかもしれないが、華恋はこの塚田のことを内心慕っている。少々強い言葉を選びがちなせいで悪印象をもたれがちだが言っている内容は間違っていない。どんな相手であろうとも態度をかえないところも華恋にとっては尊敬できるポイントだ。なにより、女手一つで子供を育てながらハードな仕事もこなしているというのは同じ女性として尊敬せざるを得ない。
華恋の質問には答えず、塚田は自分のデスクの引き出しから何かを取り出した。それを見て華恋が「あ」と声を上げる。
「私はね、コレを取りに来たのよ。思い出したのが電車に乗った後で、扉が閉まるギリギリだったから焦ったわ」
「それは焦りますね」
塚田が手にしているモノが愛娘へのプレゼントだということを華恋は知っている。華恋が助言をし、塚田が自分の昼休みを削って買ってきたものだから。
塚田は通勤鞄にプレゼントをしまうと視線を英治に向けた。
「それにしても。あの無能な狸達、また社長がいない隙に好き勝手やってるのね」
忌々しそうに塚田が吐き捨てる。塚田の言葉につられて、華恋の脳内で副社長と副社長の太鼓持ち達が狸へと変換されていく。華恋はたまらず噴出した。英治が苦笑する。
「うちの会社で堂々とそんなこと言えるの塚田さんくらいですよ」
外回りに出ていて基本会社にいないことの方が多い社長。社員の中には社長の顔を覚えていない人もいるらしい。そんな社長に代わって社内の実権を握っているのが副社長。かなり好き放題やっている。横暴さは目立つが……ただ仕事はできる。だからこそ、周りも文句が言えないのだ。副社長にへそを曲げられたら誰が代わりにこの会社をまとめるのかという新たな問題が出てきてしまうから。
それに、一応
塚田は英治の発言を鼻で笑った。
「私は事実しか言ってないわ。今の時代に副社長のやり方はあっていないのよ。このままだと副社長の座を降ろされるのも時間の問題でしょ」
はっきりと断言する塚田に思わず華恋は拍手を送った。満足そうに塚田が微笑む。しかし、次の瞬間再び忌々しそうに顔を歪めた。
「ああいう男は家でも態度が変わらないのよ。奥さんを下に見て、自分は家のことは何もせずにふんぞり返っているだけ。全て奥さん任せ。だから何も知らないんだわ。
英治が「なるほど」と呟きながらメモを取る。塚田はそんな英治を見て微笑む。
「そうすれば、子供を連れて来る社員達も安心できるし、反対している人達も極力子供達と関わらないですむでしょう? win-winよ」
「いいですね。ありがとうございます塚田さん」
「いいのよ。森君、がんばってね。森君が思っている以上に今回のイベントが実施されるのを楽しみにしている社員達は多いんだからね。私も含めて」
「だって! 英治さん」
「あ、ああ」
塚田さんがこんなことを言うなんて珍しいと興奮した華恋に膝を叩かれ、英治は戸惑いながら頷き返した。次いで、ためらいがちに口を開く。
「あの……」
「何かしら?」
「もし、ご家族にボランティアを募ったら参加してくれると思いますか?」
「ボランティア? それは何のかしら?」
「子供達が集中しそうな縁日やeスポーツの助っ人をお願いしたいんです。子供達の対応が多いところはできるだけ子供慣れした人にお願いしたいので。ただ、割り振れる社員の人数にも限りがあります。なので、ご家族の方に手伝っていただけないかと」
「いいアイデアだと思うわ。少なくともうちの娘は参加すると思う。募集なら強制でもないし、交代制にすれば皆回れるだろうしね。ただ、調整が難しそうだけど……?」
ちらりと英治を見る塚田。
「あ、それは大丈夫です」
即答した英治に、塚田が拍子抜けした顔で「そう」と頷いた。そして、笑みを浮かべる。
「ああ、それにしてもこの企画が通るのが本当に楽しみだわ。今まで家族も参加できるイベントなんてなかったもの。新鮮だわ。いいこと森君、絶対にあの狸達に負けちゃダメだからね! もし何か困ったことが起きたら私に相談するのよ?」
「は、はい」
「ふふふ……それじゃあ私は馬に蹴られる前に退散するわね」
「「え?」」 ちょ、ちょっと塚田さん?!」
ほほほ〜と笑いながら去って行く塚田。残された二人は顔を見合わせて頬を染めたのだった。