麻友から背中を押されてもう一ヶ月が経つ。それなのに華恋は何も行動できないでいた。最初は食事に誘うなんて簡単なことだと思っていた。ところが、いざ自分から誘おうとすると、躊躇する気持ちが出てきた。
『急に誘ったら森さんは迷惑かもしれない』『都合があわないかもしれない』という後ろ向きな考えばかりが浮かび、しまいには『もし、変な雰囲気になったらどうしよう』という恐怖にも似た感情が華恋を襲った。
華恋にとって恋愛は未知の領域だ。苦手意識も強い。結局そうこうしているうちに日にちだけが過ぎて行った。
「渡辺さん」
「は、はい! な、なんでしょう」
「ちょっと席を外すから」
「あ、はい。わかりました。どうぞ、行ってきてください」
猫背の英治を見送りながら華恋は溜息を洩らした。最近、どうも意識しすぎて不自然な対応をしてしまっている。英治は華恋に対して以前と何も変わらないというのに。そのことも気になっていた。――――何もなかったとはいえ、一緒のベッドで寝た仲なのに。
と、そこまで考えて『一緒のベッドで寝た仲』というパワーワードに気づいて自分でダメージを受けた。
「華恋ちゃんどうしたの? もしかして、仕事が終わりそうにないとか? それなら俺手伝うけど」
「いえ。仕事は終わったので大丈夫です」
顔を上げ、はっきりと意思表示した。だが、八木は華恋の発言が聞こえなかったかのように隣の席に座った。――――あ。そこ、森さんの席。すぐ戻ってくるのに。
とは口には出さなかった。その間に、八木が地面を蹴って椅子ごと華恋に近づく。そして、じっと華恋の顔を見つめた。
「な、なんですか?」
「いや~。なんか……最近華恋ちゃんの雰囲気が変わったきがしてさ~」
「そうですか? 何も変わってないと思いますけど」
自分の頬に手をあて首を捻る。特にメイクもヘアスタイルも何も変えてない。――――もしかして太ったとか?
最近体重計に乗ってないことに気づいて眉根をよせる。もしかして……と焦る華恋を見て八木は目を細めて微笑んだ。
「そうじゃなくてさ」
華恋が顔を上げる。そのタイミングで八木がさらに顔を近づけた。
「恋、してない?」
耳元近くで囁かれ、しかもその言葉が的を得ていて驚いて目を見開く。固まった華恋を置いて、八木はニヤリと笑うと立ち上がって自分のデスクへと戻った。入れ代わるように英治が戻ってくる。華恋の目の前に放置された椅子と八木を見比べて眉根を寄せると「はあ」と溜息を洩らした。華恋の身体がビクリと揺れる。
「すみません。すぐ戻しますね」
慌てて華恋が椅子に手をかけようとしたのを英治は片手で制した。
「謝らなくていい。渡辺さんのせいじゃないのはわかってるから」
「え、あ」
英治が椅子を引き、己のデスクに戻す。そして、片付けを始めた。ハッと我に返る。
――――私も早く準備しないと。
今日は総務部の飲み会だ。華恋がもたもたして英治を誘うタイミングを逃している間に定期飲み会の方が先にきてしまった。華恋も急いで荷物を片付ける。
今日は部内の全員が参加予定だ。最近は二次会がなくなった分、できるだけ早く仕事を終わらせて長く飲み会を楽しもうとする空気感ができている。
飲み会がある日の皆は仕事への気合の入れ方が違う。
総務部にいる人達はさっぱりした性格の人が多い。特別に誰と誰が仲がいいとかはなく、日々の大量の仕事と戦っている戦友のような空気感がある。定期飲み会も自分達を労う為の名目だ。そのおかげか、人付き合いが苦手な華恋も総務部の飲み会は嫌いじゃない。
これが秘書課や営業部との飲み会になると最悪だ。一度、八木課長に頼まれて営業部の飲み会に一緒に参加したことがある……がこれが結構辛かった。あまり思い出したくない。
華恋の飲み会での定位置は部長の隣。総務部内で唯一絡み癖がある八木も部長の目の前で強引に華恋に迫ろうとはさすがにしないからだ。
でも、今日の華恋は迷っていた。いつも通り部長の隣に座るべきか、思い切って森さんの隣に座るべきか。しかし、英治はすでに奥の席に座っていた。その隣にはすでに他の社員が座っている。
こうなったら仕方ない。華恋はいつも通り部長の隣に座った。内心がっかりしながらもホッともしていた。
「お、これ美味しいねぇ」
「わ、本当ですね! もう一皿頼みますか?」
「いいかな?」
「もちろんです。私も食べたいし」
「ありがとう」
朗らかに笑う部長。つられて華恋も微笑み返す。――――あーやっぱり部長って理想のお父さんだなあ。
華恋の両親はいいように言えば美男美女で、とても成人済みの子供がいるようには見えないくらい若々しい。小学生くらいまではそんな両親が自慢だったが、中学生くらいになってからはそんな両親が嫌でたまらなくなった。
両親の仲は良好だが、その分喧嘩も激しい。しかも、互いに無駄にモテるものだから喧嘩が絶えない。
目の前で子どもそっちのけで大喧嘩を繰り広げる両親を見て家を出て行こうかと本気で考えたこともある。まあ、その時は推しのおかげで踏みとどまることができたんだけど。
でも、未だに喧嘩した後にする仲直りのキス(深いやつ)を外でもするのはやめてほしい。さすがに落ち着いて欲しいと思ってしまう。
そんなわけで、華恋は理想の両親像に限りなく近い部長夫婦に憧れを抱いているのだ。
穏やかな部長の奥さんは、これまた同じくらい穏やかな人だ。二人揃って空気清浄機かってくらい。ただ、なぜか二人の間に生まれた娘さんは私もびっくりするくらいしっかりしている。ちなみに、そんな娘さんから見ても部長夫婦は理想の夫婦像なんだとか。……羨ましすぎる。
私の父なんて、「いつになったら女性からモテなくなるのか」なんて未だに本気で悩んでいる。贅沢な悩みと言われるかもしれないが、これがわりと本気で笑えない悩みなのだ。実際、未だに月に一回は女性問題が勃発し、母が怒り狂っている。それでも昔に比べれば随分落ち着きはしたけど。
正直、私が恋愛に忌避感を抱くのは両親を見てきたからかもしれない……と思っている。母がショックを受けるだろうから口にはださないけど。
部長とたわいない話をしながら、ちらりと英治に視線を向ける。英治は皆が酔って愚痴大会を開催しているのをよそに我関せずで飲み食いを楽しんでいた。
――――森さんの周りだけ皿がたくさんある。めっちゃ食べてる。……ちょっと話しかけてみようかな。
そんな気持ちがむくむくと起き上がってきた。ところが、腰を上げようとしたタイミングで肩を叩かれた。出鼻をくじかれてへなへなと腰を戻す。明らかに酔っている八木を無言で見上げた。
「華恋ちゃん飲んでる〜? 部長に遠慮して飲めてないんじゃな~い?」
「そんなことないですよ。私はちゃんと飲んでますよ。八木さんこそもっと飲まないんですか?」
華恋は笑顔を浮かべ、他社員達が騒いでいる方を見て促す。
意訳すると、『あっちに戻ってください』だ。けれど、酔っぱらい相手には通じない。
「俺は〜もういっぱい飲んだから大丈夫~。華恋ちゃんこそ、もっと飲みなよ~はいど~ぞ~」
おもむろに八木が華恋が飲んでいたグラスに焼酎をつぎ足す。
「え、ちょ、やめてください!」
華恋が飲んでいたのはカクテルだ。しかもまだ半分は残っていた。
「大丈夫大丈夫~この焼酎おいしいから~」
「そういう問題じゃなくて」
若干イラついた華恋が八木を睨みつける。はっきり言わないと伝わらない。口を開いた瞬間、部長が間に割って入った。ふくよかな身体を二人の間にねじ込む。
「八木君~。その焼酎は僕が飲みたいな~」
「え~。まあ、部長にいわれちゃしょうがないですね~」
押しやられた華恋が呆気に呆気に取られていると、後ろから腕を引かれた。強引にその場から連れ出される。華恋を連れ出したのは他でもない英治だ。
「あ、あの森さん」
英治の背中に声をかけるが、周囲の喧噪のせいで聞こえてないのか返事は無い。戸惑ったままとりあえずついていく。店の外に出て、ようやく英治の手が離れた。
「ここまでくれば大丈夫だろ」
飲み屋街のライトの逆光で森の表情がよく見えない。華恋の口から掠れた声が漏れた。
「助けて、くれたんですか?」
ドキドキ心臓が鳴っている。
「……いや。助けたというか……部長から助けてやれってアイコンタクトを送られたからな」
「あ、そうだったんですか。それで、部長が」
さすが部長!という気持ちと、ちょっと残念という何とも言えない気持ち。
「今度お礼しないと……あ、森さんにも」
「いや、俺は別にいいよ」
「ダメです!」
思ったよりも力が入って二人で固まった。華恋は咳ばらいをしてごまかした。
「も、森さんには以前も助けてもらいましたから。お礼を……あ!」
「な、なに?」
「まだ飲めますか?」
「え? まあ」
「じゃあ今から二次会行きませんか?!」
「俺達だけで?」
「はい!……って、まずいですかね?」
まだ飲み会は続いている。二人だけで抜けるのはさすがにまずいだろうか。
「いや……もう二時間は経っているし、部長もわかっているだろうから別にいいと思うけど。念のため、部長に連絡いれとくか」
「あ、じゃあ。私が送っておきますね。さっきのお礼も言っておきたいですし」
「頼んだ」
部長にメッセージを送る。荷物を持ってきておいてよかった。
「それじゃあ、さっさと行くか」
「はい!」
ここでじっとしていて、総務部の誰かに見つかったら面倒だ。
「この前のお店でいいですか?」
「ん。いいね。あそこ、俺んちからも近かったし」
「自宅が近いって最高ですよね。たくさん飲めますし」
「ん」
言ってから思い出した。前回は飲み過ぎた結果、英治に迷惑をかけてしまったことを。今日はほどほどにしておこうと心の中で誓った。
二人並んで夜道を歩く。肌寒い季節のはずなのに頬と英治に面している方の半身だけがぽかぽかしている。後、心臓もドキドキしている。――――これが恋ってやつなんだろうか。