「あれ、私のおっぱいなんだよね」
とうとつにウリタはそう言った。放課後だった。
僕は二階の渡り廊下からテニス部の練習を見ていた。足が痛むせいで部活に出られないのだ。親指が深爪で炎症を起こし、三日前からまともに歩けない。部活は好きだから悔しかった。そこに彼女がやってきた。
「え?」
振り向かずに聞きなおした。聞き間違いに決まっているからだ。
ちょうどローボレーの練習が始まるところだった。腰より低い位置でのボレーは難しいが、コレを返せなければダブルスの試合はまるで成立しない。前衛の足元を狙われて失点が連続する。同級生の返球はどれもみなコースが甘く、見ていて歯がゆかった。もっと腰を落とせ。顔とラケットが遠すぎる。僕ならもう少しうまくやれるのに。
「だから、アレは私のおっぱいなの」
もう一度ウリタはそう言った。今度はさすがに振り返った。
「お…、え?」
さすがにおっぱいとは言えなかった。恥ずかしいからだ。
でも確かにおっぱいって言ったよなコイツ。話がまるで見えない。ウリタは平然として、僕の隣で窓の外を見ている。
「何を見てるの?」
彼女の視線をたどるけどよくわからなかった。見えるのは赤茶色のハードコート、緑の防球ネット、青いジャージの部員たち、あと顧問のコバヤシ。
「違う、その奥。わかってるでしょ?」
ウリタが細い指で視線を誘導した。防球ネットのさらに奥、窓ガラスの向こう側。校舎一階の廊下の突き当りに、古いモニュメントが置いてある。確か何年も昔の卒業生が寄贈したとかいうヤツだ。
模様のついた白い石と銀の金属プレートから成る、抽象的な造形物。
「アレが、私のおっぱい」
ウリタは僕の目を見て、笑いもせずにそう言った。
そして我々は問題のモニュメント前に来ている。
「これってさ、何かの象徴みたいな話なの?」
違う、とウリタは即答した。象徴とかメタファーとかそんな話じゃなくて、もっとダイレクトにアレは私の一部なの。
「そんなのおかしいよ。だって」
僕は紺のブレザーを着たウリタの胸元を見ざるを得なかった。でも恥ずかしいからすぐ目を逸らした。
「ウリタさんはここにいるじゃない。おっぱ…その、胸だけが分離して存在してるってこと?」
「イエスともいえるしノーともいえる」
ウリタは淡々と説明した。確かに私はここにいて、おっぱいもここにある。でもそれとは別に、このモニュメントも私のおっぱいとして確かに存在している。分離しているし同時に一体でもある。
つまりおっぱいは二つある。左右を考えると二セットある。
女子だからなのかもしれないが、ウリタはおっぱいと口にすることにまるでためらいがなかった。
僕にはまるで無理だ。
「半年くらい前に気付いたの。いつの間にか私のおっぱいがこんなところにもできていたんだって。そういう感覚ってわからない?」
わからなかった。
わかるわけがないだろ、とも思った。
何なんだこの話は。
足はずきずき痛むし気分は最悪だった。深爪さえしなければこんなことにはならなかったのに。今頃コートで楽しくテニスができたのに。よっぽど立ち去ろうかとも思ったが、痛みのせいですぐには動けない。
「仮にその、胸だったとして、ウリタさんはどうしたいの?」
というかなんで僕に言うの?
「隠したい」
そして大きなため息をついた。
「隠したいの。こんな衆人環視の場に自分のおっぱいを晒しておきたくない。恥ずかしいから。イハラくんなら言わなくてもわかってくれると思ったけど」
ウリタはちょっと失望したみたいな顔をした。
知らんがな、と思う。
そりゃウリタが裸で困っていたら察することもできるけど、この状況はさすがに特殊すぎないか。
それから僕はこう言った。
そもそもコレをおっぱいだと思っている人はいないと思う。仮にいたとしても、ウリタのおっぱいだとは思わないと思う。僕だって今さっき言われるまで、コレがモニュメント以外の何かであるなんて考えもしなかった。ましてやウリタのだなんて。
だから別にいいじゃない。
でも彼女は納得しなかった。
「実は一度、先生たちにお願いしたんだけど」
このモニュメントを撤去してほしい。それが無理ならせめて非公開にしてほしい。
「そしたら、どうして?って。でも理由なんて言えるわけない。恥ずかしい」
ウリタはちょっと泣いている。
「誰にも言えないしずっと悩んでた。でもさっきイハラくん、あそこで真剣に私のおっぱいを見てたでしょ?それで、この人ならわかってくれると思って。ぜったいに茶化さないだろうなと思って」
「いや、僕はテニス部の練習を見てただけで」
「お願い、力を貸して。お願い」
彼女はまるで僕の話を聞いていない。
だがいずれにせよ気の毒だった。
僕だって自分のおしりの複製を勝手に作られて、みんなが見えるところに放置されたらイヤだなあと思う。桃のオブジェとか呼ばれていてもイヤなものはイヤだろう。ソレは確かに僕のおしりなのだから。
なるほど想像力がようやく追いついてきた。確かにウリタの主張にも理があるのだ。
「わかったよ」僕は言った。
「よくわかんないけど、手伝うよ」
ウリタの表情がパッと明るくなる。
まったくコレもすべて、深爪のせいだった。
幸いにして、ウリタのおっぱいはモニュメント全体を指すわけではないらしい。
「コレは?」
「それは私のおっぱいじゃない」
「じゃ、コレは?」
「それが私のおっぱい。一つの石でワンセット」
「なるほど」
つまり、モニュメント全体を撤去したり隠したりする必要はないのだ。ウリタが「私のおっぱい」と主張する一部、具体的には丸い石だけを外してどこかに隠せばイイ。
両手で石を掴むとひんやりしていた。重いけど力を入れると動く。固定されているわけではないらしかった。
「あんまり、触らないでほしい」
あごめん。慌てて手を離した。そうかコレはおっぱいなのだ。
「それに、持っていったらすぐにバレちゃうよ。私、みんなにおっぱいを見られるのもイヤだけど、おっぱいの不在をとやかく騒がれるのもヤなんだよね」
知らんがな、とまた思う。だが確かに持ち去れば問題になるのは避けられないだろう。
「じゃ、同じものを作って置いとけばイイんじゃない?」
「あっ。天才だ」
彼女の顔が輝く。発想の勝利だ。
翌日は土曜日だったから、僕らは待ち合わせて近くの河原で代わりの石を探した。あんがいすぐにソレっぽいのが見つかった。
彩色は学校の美術室でやった。知らなかったがウリタは美術部らしい。石を綺麗に洗い、全体を白く塗って最後に黒い絵の具で幾何学模様を描いた。それはなんらかの呪術のようにも見えた。
休日の校舎は閑散として、拍子抜けするほどラクに石の取り替えは済んだ。
「これならバレないと思う。少なくとも僕には見分けがつかないや」
凹凸がやや異なるのと、模様の線が微妙にずれていることを除けば、元の石と新たな石の違いは少しもわからない。
「そう?私にはまるで違うように見えるけど…」
でもイハラくんが言うなら大丈夫だよね。ウリタは自分を納得させるように何度も頷いた。
「大丈夫だよ」
僕も頷いてやった。本音を言うと知らないけども。
そこで、ふと思った。
「もしかしてこの石を作ったことで、僕らは誰かのおっ…胸か何かを作っちゃったんじゃないの?」
「さあ」
元の石を大事そうに布で包みながらウリタは首をかしげた。
「でもその時はまた、新しく石を作って取り替えればイイ話じゃない?」
ひどく無責任な発言である。それは悲劇のおっぱい連鎖を生むのではないかと思ったが、僕はもう何も言わなかった。
そもそもこの石がウリタのおっぱいなわけないだろ。彼女のイカれた思い込みに決まってる。だがいずれにせよ僕は彼女の力になってやれたのだ。
だったらソレでイイじゃないか。
「ホントにありがとう。イハラくんのおかげで助かった」
それは良かったなと思う。
石は今度、どこかの山奥の綺麗な河原に置いてくる予定らしい。
それがイイだろうな、と思う。
僕らは手を振って別れた。足の痛みはもうずいぶん楽になっていた。
一週間が経ち、晴れて僕はテニス部に復帰した。
だが練習中、どうにもあのモニュメントが気になって仕方ない。ちらちらと横目で見てしまう。
ソレが目についたのか、休憩時間にコバヤシ顧問は僕を呼び出した。
「ひとつ、大事な相談をしたくてな」
てっきり説教されるのかと思ったが違うらしい。あの細工がバレたのかとも考えたが、それにしては顧問の表情は妙だった。何かを打ち明けるような、真剣な顔である。
「イハラならわかってくれると思うんだが」
そして顧問は僕の背後の一点を指さした。見なくてもわかっていた。そこにはあのモニュメントがあるのだ。
「アレな、先生のちんちんなんだ」