「なあ、トーナ」
「なあに?」
この細やかな幸せの中でハルは少し迷っていた。
先ほどワッケンから聞いたファマスの顛末をトーナに伝えるべきかどうかを……
「どうしてこの街に住もうと思ったんだ?」
「急にどうしたの?」
愛する夫からの質問にトーナは不思議そうに見上げた。
「いや、何となくな……あの時、ファマスから可能な限り離れようとしていただろ?」
追放された二人は、東へ東へと急き立てられるように進んだ。きっと、黒い髪と赤い瞳の呪縛からトーナは逃げ出したかったのではないかとハルには見えた。
「そうね……この髪と瞳を忌避されていたから、そんな価値観から……その呪いから……出来るだけ距離を取りたかったのだと思う」
ところが、この街で人々と触れ合うと、彼女はすんなりとこの地に居座ってしまったのだ。
「あなた、この街に着いた時の事を覚えてる?」
「忘れようがないさ。宿を探していたら、あのボルグさんが大通りで助けを求めて泣き叫んでいたよな……」
それこそ先ほどまでいた、ボルグの宿の前での出来事であった。
妻のデリスが急に倒れてしまったと、ボルグが大慌てしたのだ。
運悪く彼らが掛かりつけとしていた医師も薬師も不在でボルグをいっそう慌てさせた。
そこに通りかかったのがハルとトーナだった。
これこそ天の配剤。
ボルグは額を地につける勢いでトーナに助けてくれと懇願した。今この場で救える治癒師は自分だけだからと、トーナは治療を承諾した。
ただ、この地にどんな生薬があるかトーナはでまだ把握していなかった。だから、手持ちの薬剤のみ対処したので十分な治療とは言えなかったが……
治療後、ボルグが懇意にしている老薬師のエイザンがやってきて、トーナの治療にいたく感心した。それが縁でトーナは彼に師事したのである。
もっともエイザンの知識をトーナはあっという間に吸収してしまった。
驚いたのはその後で、トーナに教える事がなくなるとエイザンは年齢を理由に引退してしまったのだ。トーナは薬方店と患者を押し付けられ、そのまま街に居着いてしまったわけである。
「だけど、出て行こうと思えば出て行けたし留まる理由もなかったろ?」
最初に診たデリスもエイザンが往診に来た時点で引き渡すのも可能であったし、無理にエイザンについて学ぶ必要もなかった。
「私もね、最初はなんとなくだったの」
トーナは安心しきった様子でハルの胸に寄り掛かった。
「ボルグさんやデリスさん、それにエイザン先生に流されたと言えばそれまでなんだけど……マーレを産んで……育てて分かったの」
トーナは夫の腕の中でいつの間にか寝入ってしまった愛娘の白銀の髪を愛おしそうに撫でる。
「マーレを取り上げてくれた産婆のベルタさんは、今でもこの子を気に掛けて……いいえ、あの方は自分が取り上げた全ての子供を今も見守っていらっしゃるわ」
ベルタは百回近くもの出産に立ち合った経験を持つ熟練の産婆である。
取り上げた子供を我が子や孫のように何かと気に掛けており、マーレの子育てにトーナは随分とこの老婆に助けられた。
「子供は産んで終わりじゃない……その後も子供達の人生は続くの……そして、それは患者も同じ」
「患者も……同じ?」
「ええ、私たち治癒師はどうしても患者の病気を治す事を最終目標としてしまう……」
治癒師はそれが仕事なのだから当然ではないだろうか、そうハルは思ったが話の続きを黙って聞いた。
「でもね、患者を病から救ったらそこで終わり、ではなかったの」
そう告げたトーナの瞳は優しくも寂しさを湛えているようにハルには思えた。