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第76話 常闇と白銀―ある地方都市の宿屋にて②―

「出産は命懸けだからなぁ」

「世の母親達には全く感服いたします」


 以前はあんなに女性を毛嫌いしていたが、トーナの出産に立ち会ってハルの心境は大きく変化していた。


「デリスさんは五人も産み育てている。まったく凄いものだといつも思います」


 だから、デリスへの敬意は本物である。


「まあ、お陰でかかぁには頭が上がらんがね」

「俺もその内トーナに逆らえなくなるんですかね?」


 そう言ってハルとボルグは声を立てて笑った。


 お互い自分の妻に頭が上がらなくとも良いかとの既婚男性同士の共感である。


「なんだい、なんだい、男二人顔をつき合わせて笑って」


 ちょうどその時、デリスが厨房から料理を詰めた器を運んできた。


「あり合わせだけど、保存はきくから持ってきな。明日はもうちっと良いもん用意しとくからさ」

「ありがとうございます」


 ハルはかなり重量のありそうな容器を受け取り礼を述べたが、デリスはそれに対してひらひらと手を振った。


「いいって、いいって……それで何の話をしてたんだい?」

「出産は楽じゃねぇって話さ」

「まあねぇ、神でもないただの人間が新しい命を産み出すんだから簡単じゃないさね」

「新しい生命か……確かにそう考えるとすげぇ事だよなぁ」

「それを五人も……デリスさんは本当に尊敬に値する人だ」


 素直に感心するハルにデリスとボルグの目は点になった。


「なぁに言ってんだい。トーナさんはもっと凄いじゃないか」

「トーナはまだ二人目ですが?」


 首を傾げるハルにデリスは呆れた眼差しを向けた。


「これだから男は……いいかい、出産は数じゃないよ。それにトーナさんは母と薬師くすしを両立しているじゃないか」

「そうそう、あんな細っこい身体で新しい生命いのちを育み、患者の命も守っているんだからすげぇ奥さんだよ」


 実は、この街に定住して間もなくデリスを一度トーナの薬で助けた事がある。その為、二人はトーナに対して恩義を感じているし、薬師としての彼女を尊敬もしていた。


「この間もカルデのじぃさんが胃が痛い、鳩尾みぞおちが痛いって騒いで転げ回ってた事があったろ?」


 ボルグが話題にしたのは、医師も薬師も胃腸に異常を見られないと見捨てた患者の話である。


「あのじぃさんは人騒がせな性質たちでな。それもあって仮病だろ、気の持ちようだろと呆れて治癒師の誰もが取り合わなかったんだ。それをトーナさんがしんの病だと見抜いて薬を飲ませたらあっという間に治っちまった」

「胃痛から原因を心臓だと見抜くなんて本当に凄い娘だよねぇ」

「そこで驕ったりしないところがまた良いんだよ」

「そうさね。他の治癒師のそれぞれの得意分野を持ち上げて面子を潰さないよう立ち回ってもいたしねぇ」


 元来、トーナは思いやりのある女性だ。しかし、ファマスで人々から拒絶されるのに慣れてしまったせいか、どうにも人付き合いに険があった。


 しかし、今の彼女はとても穏やかになったようにハルにも思える。


「優秀な薬師でしかもとびっきりの美人ときてる」

「ちょいと真面目すぎるのが玉に瑕だけど、穏やかで気立も良い出来たお嬢さんだからね。大事にしておやりな」

「ええ、肝に銘じておきます」

「そうそう、あんまり蔑ろにしてたら他の男に盗られちまうかもしれんぜ。なにせ奥さん狙ってる男も少なくないからなぁ」

「えっ!?」


 不穏な情報を漏らしハルはぎょっとした。


「人妻だってのにバカな男共が色めき立って必要もないのに薬を買いに行ってたしねぇ」

「そりゃ、あんだけ美人で優しけりゃ男なら鼻の下も伸びるってもんさ」

「男ってのはホントに呆れた生き物だよ」


 長年連れ添った中年夫婦のおどけたやり取りに、しかし、冗談と理解出来ても愛する妻の周りに男がたかっていたのかと、ハルは内心気が気ではなかった。


「奥さんの愛情に胡座をかかず逃げられないようにしっかり捕まえときな!」


 その不安を知ってか知らずか、ボルグが冗談めかしてばしばしとハルの肩を叩いた。


「ばぁか、お前さんと違ってハルさんは色男なんだ。逃げられるわけないだろ」

「ガハハハッちげぇねぇ!」


 妻に群がる虫をどう駆除してやろうか、そんな仄暗ほのぐらい考えを見透かされハルは二人に笑い飛ばされた気がした。


「いや、彼女は本当に綺麗で誰よりも賢くとても優しく出来た妻だから、愛想を尽かされないかいつも気が気じゃないんですよ」


 だから、おどけて誤魔化したのだが、意外とこの戯言ざれごとも半分本気である。


「おやおや惚気のろけかい?」

「ご馳走様だな」


 自分の妻をべた褒めするハルの様子に、ボルグとデリスは顔を見合わせて肩をすくめた。


「まあ、本気で心配する必要はないがな」

「奥さん、あんたにベタ惚れだからねぇ」


 彼女が今でも自分にぞっこんであるのには自信がある。


「実は彼女が困窮しているところを俺が完全に囲い込みまして、俺以外に頼れる男がいないと彼女に刷り込んだんです」


 にやりと笑ってハルはおどけてみせたが、嘘偽りのない真実である。二人旅なのをいいことにトーナを完全に堕としていたのだ。


「彼女は俺なしではもう生きていけませんよ」

「かぁーっ! 悪い男だねぇ」


 三人は声を立てて笑った。


「随分と楽しそうですね」


 不意に笑いの輪の中に異質なおとが混じる。



 声の方へ顔を向ければ、そこには一人の行商人がにこにこ笑って立っていた。




――《用語解説》――

【関連痛】

 身体のある部位での病因で起こる痛みを、原因となる部位から離れた部位に感じる痛み。

 上記のカルデの胃痛は狭心症が原因でした。狭心症は心臓に痛みを感じますが、実は意外と関連痛として他の部位(鳩尾みぞおち、肩、背中、歯など)で痛みを感じるケースが少なくありません。その為、他の痛みから狭心症を疑う症例もあります。

 ところが一部の医師には鳩尾の痛みから狭心症を疑い心臓の検査をしようとしたら、関係のない検査をして儲けようとしていると患者から怒られたとの話もあるそうです。

 まったく違う部位での痛みや症状でありながら想定していた疾患とは違うことは多々あります。

 不審に思われる方もおられるかもしれませんが、診断の為には推定される病気を一つずつ潰していかなければなりません。決して無暗に検査をしているのではないとご理解ください。

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