とある国の地方都市――
都市の中央を南北に走る大通りに商店が並ぶ一画にその宿屋はあった。
この一帯には宿屋が幾つもひしめいており、安さで選ぶか、多少高くとも飯で選ぶか、街に来訪した商人や旅人達が品定めしながら近くの通りを
その宿に銀髪の青年が扉を押し開けて入ってきた。
その青年はとても美麗で、表の通りではすれ違った女性がみな顔を朱に染め振り返ってしまうほどだ。
青年は宿に入ると真っすぐ食堂の方へと進んでいき、カウンターで暇を持て余していた亭主に手を上げた。
「こんにちはボルグさん」
「よぉ、ハルさんじゃないか」
二人の声が聞こえたようで、台所の奥から恰幅の良い女将が顔を出す。
ボルグの妻デリスである。
「あら、ハルさん。こんなボロ宿へ何の用だい?」
「おいおい、仮にもお前の亭主の城をボロ宿はないだろう?」
自慢の店を
「なぁにが城だい。こんなおんぼろ宿が城でお前さんが王様ってんなら、向かいの
「男にとっちゃ自分の店はどんなボロでも自慢の城なんだよ!」
この二人の口喧嘩は日常茶飯事。
一種の儀式みたいなものである。
お互い信頼し、愛し合っているからこそ出来るおふざけだ。
この宿は提供される料理の評判も良く繁盛しており、それは二人とも自覚し誇りにしているのだ。
それはハルにも分かっており、二人のじゃれあいを見せられて苦笑いした。だが、無用と思いつつも、このままでは埒があかないと仲裁に入った。
「まあまあそれくらいで、俺の用件を聞いてくれませんか?」
「ああ、済まなかったね。バカな亭主のせいで時間を食っちまった」
茶化した物言いでデリスが混ぜっ返すので、またぞろ言い争いを始められては堪らない。ハルはさっさと用件を切り出した。
「出来るだけ妻の家事の負担を減らしたくて……何か料理を持ち帰れないか相談にきたのですが」
気恥ずかしさからか、少し歯切れの悪いハルの頼みにボルグはぽんと手で相槌を打った。
「ああ、奥さんおめでただったな」
「じゃあ、持ち帰り出来るもんを見繕ってあげよかね」
「助かります。大事な時なんで妻にあまり無理をさせたくなくて」
デリスが厨房へと引っ込むと同時にボルグが椅子を用意してくれた。それに腰掛ければボルグも対面に座って話題を振ってきた。
「二人目だったよなぁ。前は女の子だったし、今度は男の子がいいかい?」
「母子共に無事ならそれで……」
出産はハルが想像している以上に命懸けなのだと最初の子供の時に知った。
つわりで吐いたり食事が喉を通らなかったりと、愛する妻が苦しむ姿に愕然とした。
いつも健気なトーナの情動が不安定になり、そんな妻をハルは見ていられなかった。
聞けば妊婦の二百人に一人は亡くなるのだとか。
胎児も必ず無事に産まれるわけではないらしい。
その壮絶さを聞いてハルは真っ青になった。
子供など望まなければ良かった。
トーナを失うなど考えられない。
子供なんていなくてもいい……本気でそう思ったのだが……
おぎゃぁぁぁ、おぎゃぁぁぁ、おぎゃぁぁぁ……
産まれた娘を見て、その喜びから出産を否定する気持ちが吹き飛んだ。トーナが産み落とした生命の愛おしさに、ハルにとって娘は妻と同じくらい大切な宝物となった。
だから、トーナが二人目を欲した時、ハルはそれに反対しなかった。だが、やはりトーナが何より大事だ。絶対に失いたくない。
「二人とも無事ならそれだけで嬉しいのです」
それが今のハルの偽らざる心情であった。
――《用語解説》――
【出産】
意外と知られていないのが出産時のリスクです。
妊娠は女性ホルモンバランを崩してしまう為、高血圧や糖尿病などの様々な合併症の危険性があります。また、出産時も出血や脳卒中などで亡くなるケースもあるのです。
昔の自然分娩時代の妊産婦の死亡率は10万人あたり400人ほどでした。現在では、10万にあたり3人ほどでかなり安全にはなりましたが、それでもノーリスクとはいきません。
きちんと定期検診を受け、緊急時の対応ができるように母子手帳を作りましょう。