残されたのはモスカルと一人の若い司祭だけ。
「皮肉なものです」
そう呟きながら礼拝堂を後にするモスカル。
「皮肉……ですか?」
モスカルの後を慌てて追った若い司祭はその呟きをかろうじて拾った。
「私は虐げられていたトーナを助けるつもりでいましたが、その彼女のお陰で教会の大掃除が出来たのです」
「その娘はファマスにとっても大いな
司祭はまだ若い。
モスカルは特に注意をするでもなく話を続けた。
「彼女の
「ラシアの効能も惜しいものだったのではありませんか?」
「それは彼女の亡き祖母に口止めされている事柄です」
とても聡明な方だった……
差別を受ける黒髪の少女の将来を憂い、たくさんの知識を授けて独り立ち出来る力を与えただけではなく、ラシアの秘密も慎重に扱った。
魔獣を遠ざけるラシアの育成方法は、この国にとって莫大な利益を
もし、ラシアの秘密が露見していたらトーナは無事ではいられなかっただろう。
「どうにかラシアの件も含めて教会でトーナを庇護できればと考えていたのですが……」
トーナの祖母もそれを見込んでモスカルにラシアの秘密を打ち明けたのだ。
「彼女の件だけではなく、私は貴族派と改革派の争いを止められませんでした」
教会の惨状を改善できなかった己の非才不徳が何とも恨めしい。そう嘆くモスカルの様子に、彼の教え子である若い司祭が撫然とした。
「モスカル様は穏健派を纏め上げ、改革派を懐柔し貴族派の横暴を牽制されていたではありませんか」
「それが私の精一杯……結局のところ、トーナが追放されたのを端にファマスが荒れ、オーロソの不正が明るみになりました」
元々、各国の王族は貴族の子弟で牛耳られている教会に辟易していた。
この件を利用してモスカルは周辺諸国の助力を得て、オーロソと繋がる貴族派を糾弾して失脚させたのである。
「腐敗していた教会は本来の精神を取り戻しつつあります……トーナの犠牲の上に」
助けるつもりの娘に助けられた……これほど皮肉な事もない。
「せめてあの娘が幸せに暮らせていればいいのですが……」
女が一人で国を追われて無事でいられる可能性はとても低い。
流浪の途上で行き倒れるか、野盗に襲われるか……それが分かるだけにモスカルにはその願いは絶望的であると思えた。
「元気にしているようですよ」
ところが、後ろから付き従って歩いていた若い教え子が予想外の報告を齎した。驚いてモスカルが振り向けば彼は澄ました顔で事もなげに続けた。
「東に国を二つ挟んだ所で、彼女を救った騎士と仲良く暮らしているそうです」
「いつの間にそれを?」
「あの娘をモスカル様がいつも気に掛けておいででしたので」
モスカルの心痛を知った者達が、教会の情報網を使ってトーナの動向を以前から探っていたらしい。
「モスカル様がお知りになりたいかと思いまして」
「負うた子に助けられ教えられる……私もまだまだのようです」
トーナには助けられ、目の前の教え子は自分の意を汲んでくれる。
「私は他者を救おうなどと驕り昂っていたみたいですね……あの娘は幸せにやっていますか?」
「幸せかどうかは本人の心のあり様ですので分かりかねますが――」
いちいち理屈っぽい教え子にモスカルは苦笑いした。
「――ですが、金銭や名誉よりも、本当に欲しかったものをあの娘は手に入れたと思います」
トーナが真に欲していたもの……モスカルにはそれを改めて何かと問う必要はなかった。
「そうですか……」
モスカルは窓から東の空を見上げた。
「それなら何の問題もありませんね」
あの娘は東へ広がるこの大空の下で、今もきっと患者を治療している筈だから。