「荷はそれだけですか?」
街を出たトーナとハルは森の薬方店で旅支度をしていた。
トーナが荷造りしたものをハルが軽々と馬に括り付ける。
彼女の荷は薬師として必要な道具と薬ばかり……
どうやら、トーナは持って行く物を必要最低限にしたようだった。だから、女性にしては荷が少な過ぎるのではないかとハルは心配になって確認をしたのだ。
「はい、あまり多くても旅の邪魔になりますから」
トーナはどうにも他の女性と違って、こんな所が合理的である。
馬の扱いを知らないトーナは手伝いもできず、ハルの作業を眺めていた。が。ふと幼少の
「この家にも二度と戻ることはできないのですね」
「おそらく難しいでしょう」
トーナの瞳が僅かに揺らぐ。
「悲しいですか?」
「悲しい……そうですね……いいえ、きっと寂しいのだと思います」
この家を見て胸の奥底から湧くのは、祖母と暮らした
「ここでの暮らしは辛い思い出ばかりでした……それでもお祖母様との大切な想い出もいっぱいあるのです」
森の家での暮らしは、辛くとも大好きな祖母との掛け替えのない記憶なのである。
「その想い出は私の支えであり、その記憶に寄り添って生きてきましたから」
「これからは俺が貴女を支えます」
「あっ、ハル様!」
ハルはトーナを多少強引に引き寄せると彼女の背に腕を回した。
「絶対あなたに寂しい想いはさせません」
「はい……」
同意もない突然の抱擁であったが、トーナは拒むことなくハルに身を預けた。
トーナの視界に小さな青色が入ってきた。それは祖母の瞳を彼女に思い起こさせ、ここでの大切な記憶の数々が胸に去来する。
「私がこの地を去ればこの花は……ラシアは早晩枯れ果ててしまいますね」
今まで彼女はこの地に根付かないラシアをずっと世話してきた。その記憶の中には祖母とのものも多く、強い思い入れがない筈もない。
ふと、祖母の瞳を想起させるこの青い花が、トーナにとってこの地に暮らす意味であり全てだったのではないか……そう思い至るとラシアと自分が重なって見えて、彼女は胸に棘が刺さったような痛みに襲われた。
「私もラシアと同じで、この地に拒まれていたのですね」
ラシアはこの地では自生できない。
まるで土地に拒否されているよう。
だけど、それはラシアも自分自身も同じで、この地に慣れようとはしなかったのだ……その自戒の念が痛みの正体なのだとトーナには既に分かっていた。
「俺はトーナさんを拒みません……俺があなたにとって根付く大地になりましょう……絶対にあなたを離しません」
「ハル様……」
ハルの励ましにトーナが顔を上げれば、赤と青が自然と交叉する。
「俺があなたをずっと愛します。だから、あなたが枯れる事はありません」
「はい……私は一生ハル様の傍にいます……好きです……ハル様を愛しています」
青の炎の熱が冷えた赤に熱を与え、その熱量に二つの色の間に引力が生じた。
「トーナ……」
「ハル様……んっ」
その引き合う力に自然と近づき、二人の熱が重なり交じり合う。
結びついた熱は想いの強さだけ増して、蕩けてしまいそうなほど熱を帯びたが、それでも二人は離れようとはしなかった。
寧ろ、その熱が高いほど浮かされて、背に手を回してより強く、より深く、より激しく絡み合う。
このまま一つになりたいーーそれはとても魅惑的な誘惑だった。
しかし、伯爵の気が変わって強硬手段に出ないとも限らない。街の者達が暴走する可能性だってある。
時間を浪費するのは得策ではない。
絡み付くトーナの体温がハルの理性を吹き飛ばしてしまいそうだったが、その抗い難い欲望をなんとか抑え込んでトーナを閉じ込めていた腕を解いた。
一つに溶けあった二人が分たれると、トーナの湿りを帯びた唇の隙間からほうっと熱の篭った吐息が漏れ出た。
真面目で静謐なトーナの少し湿りを帯びたような
慌てる必要はない……もう彼女には俺しかいないのだから……今、己の欲情に負けて全てを失っては元も子もない。
ハルは自分にそう言い聞かせて、燃え上がりそうになったトーナへの欲望の火を消した。
これから二人きりの旅が始まり、異国の地で彼女が頼れるのは自分だけ。
身も心も完全に囲っているのだから、これからじっくりと堕とせばいい。
そんな邪な算段が彼にはあったが、当然それはおくびにも出さない。
「行きましょう……あまり長居も出来ません」
「……はい」
赤い瞳はとろりと蕩けて少し名残り惜しそうにハルを見詰めたがトーナは素直に頷いた。ハルは流れるように馬に飛び乗ると、トーナに手を差し出す。
「さあ、手を」
嬉しそうに微笑みを浮かべて、その手を取るトーナ。
「これから末永くよろしくお願いします」
そして、馬に跨ったハルに引き上げられたトーナは、彼の腕に手を回してそう囁いた。
「いいんですか、そんなに俺を信用して?」
そんな、完全に己を信じきったトーナの挨拶に、ハルはにやりと不敵な笑みを浮かべる。
「あなたは俺の本性を知らない……俺は意外と悪い男です。とても独占欲が強く、あなたの身も心も完全に囲いこもうとしています。あなたはこれから俺に幻滅するかもしれません」
「ふふふ……ハル様も本当の私を知ったら、がっかりされるかもしれませんよ?」
そんなやり取りに二人は顔を見合わせると、先ほどまで絡み合うようなじっとりとした雰囲気とは真逆にからりと声を立てて笑い出す。
「さあ、行きますよ」
「はい、ハル様となら何処までも」
ひとしきり笑うと、ハルはそう言って馬を進ませた。
ふわり……
気持ちの良い風が吹き抜ける。
ゆらり…
ゆらり…
辺り一面に咲く青いラシアが、去って行く二人の乗る馬に手を振るように風に揺られていた……
いつまでも……
いつまでも……