「山は越えました。まだ急変の可能性は無いとは言えませんので予断は許しませんが、ひとまずは持ち直したと見て良いでしょう」

　メリルさんの寝顔は安らかで、聞こえてくる寝息も穏やかです。脱水症状も改善しましたし、毒も殆どが排泄されました。

　油断は出来ませんが、おそらく大丈夫でしょう。

「あ、ありがとうございます！」

　娘の見るからに回復している姿に、ソアラさんも喜色を隠せません。

　危険な状況を脱却できて私も胸を撫で下ろしました。

　ふわぁ……

　気が抜けたせいでしょうか？

　全身から力が抜け、小さな欠伸が出てしまいました。

「お疲れなのではありませんか？」

　思案するような素振りで口を手で隠して誤魔化したのですが、私のはしたない姿をハル様に目敏く見られてしまったようです。

　くすっと笑われた気がします。

　うううっ……恥ずかしい……

　でも、しょうがないじゃないですか。

　この三日間ずっと看病していて、殆ほとんど睡眠を取っていないのですから。

「あまり寝ていないのでしょう？」

「ええ、まあ……」

　寝台の横で椅子に腰掛けながら仮眠を取ってはいました。ですが、やはりきちんと睡眠を取らないと体はもたないみたいです。

「少しお休みになられたらいかがですか？」

　ハル様は労いたわりの言葉を掛けてくださいました。ですが、ソアラさんを一瞥した彼の目がほんの一瞬ですが、とても鋭く厳しいものに変じました。

　何だか殺気にも似たものを感じましたが……気のせいですよね？

　こんなにも優しいハル様が、か弱い女性に殺気をぶつけるなんて真似をされる筈もありません。

「す、すぐにお部屋をご用意いたします！」

　ひっ、と短い悲鳴を上げてソアラさんが部屋を飛び出していきました。何をそんなに慌てているのでしょう？

　表情が戦々恐々としていましたが……

　何でしょう？

　ソアラさんが出ていった扉を見詰めながら私は首を捻りました。

「メリル殿は俺が見ておきますから」

「ですが……」

「あまり根を詰めるても思考が鈍って良い判断が出来なくなるだけですよ」

「そう……ですね」

　ソアラさんの容態が急変する可能性も無いとは言えず少し迷いました。ですが、ハル様の言う通り、集中力を欠いて診療に重大な失敗でもしたら目も当てられません。

　だから、お言葉に甘える事にしました。

　ですが、申し送りだけはしておかないと……

　部屋に戻ってきたソアラさんへメリルさんの容態に合わせて取るべき処置の指示をしました。

「腸が弱っていますので、回復するまであまりこってりしたものや繊維質の野菜は避けてください。食事の内容は……」

　卵粥など消化に良く、栄養価の高い食べ物を幾つか例に挙げると、ソアラさんは頷きながら後で料理人に依頼しておくと了承しました。

　しばらく飲食できていない患者は腸管が弱っており、下手に食事を与えると重篤な発熱を引き起こす例があります。

　飢餓状態の場合に食事を摂取したら悪心嘔吐、脱力、血尿などの他に重篤化すれば四肢麻痺、頻拍、循環不全、痙攣、呼吸困難、意識消失……様々な症状を引き起こした例があり、重体となって死に至る場合も少なくありません。

　その為、長期絶食していた者には食事の開始の仕方があるのです。

　不測の事態に対応する指示を出し終えると、今度こそ完全に緊張が緩んでしまいました。もうこの眠気に抗えそうにもありません。

「それでは少し休ませていただきます。何か異変がありましたら起こしてください」

「後の事はお任せを……トーナ殿はゆっくりお休みください」

　病室から出て行く私に優しい笑顔でハル様は見送ってくださいました。やはり先ほどの恐ろしい顔は私の勘違いだったみたいですね。

　ソアラさんから使われていない使用人の部屋の一室に案内され、私はそのまま寝台に倒れるように潜り込みました。

　自分で思っていた以上に疲れが溜まっていたのでしょうか？

　横になると私は泥のように眠りに落ちてしまったのでした――

「――トーナ……」

　これは現実でしょうか……

　それとも夢でしょうか……

　遠くで私の名を呼ぶ声が聞こえたような気がしました。

　それは何処かで聞いた声……

　とてもとても懐かしい声……

　その声に触れると涙が溢れてしまいそうで、心が春の陽だまりの様に穏やで、暖かな記憶が私の凍った心を溶かしていくのです。

　ですが、その声が続けて告げた内容はとても衝撃的なものでした。

「トーナは薬剤に対する天賦の才を持っているけれど……やっぱり、それだけに人ではなく病を診てしまっているのね……」