ハル様は大きな
ソアラさんから手渡された篭の中には、清潔な布がたくさん入っていました。ハル様が下ろした大きな甕を覗いて確認すると、並々と張られた湯が波打っています。
「お二方ともご足労おかけしました。この布なら十分に清潔で問題ありません。お湯も当面の量として不足はないでしょう」
「湯はこれから定期的に料理人達に沸かすように頼んできました」
ハル様はとても気が利きます。さすが二十代半ばの若さで騎士団の副団長に抜擢される方です。
「ありがとうございます」
礼を述べてからハル様が置いた大きな甕から
片方へ正確に量っておいた塩を、もう片方へは同様に塩に加えたものに砂糖を投入して攪拌。更に最大目盛りまでお湯を追加し、かき混ぜて溶質を均一に溶かせば完成です。
「それは何の薬なのです?」
たっぷりと湯を注いだ器に塩や砂糖を加えていると、後ろからソアラさんが問い掛けてきました。
それらを娘のメリルさんに服用させず、なみなみ湯を注いだ器に溶かし込んでいるのを不思議に思ったのでしょう。
「まあ、薬にもなりますが……こちらは食塩で、こっちが砂糖ですね」
「えっ、塩水と砂糖水!?」
正確には生理食塩水と、生理食塩水と糖液の混合液です。
「娘を治療してくれるのではないのですか!?」
あまり時間に余裕がなく、急いでいた私が説明をついおざなりにしてしまったのが良くなかったのでしょう。
「
「あっ!」
怒り出したソアラさんがいきなり背後から肩を掴み思いっきり揺らしてきたので、私が手にしていた器から大量の生理食塩水が溢れ落ちてしまいました。
はぁ……また作り直しです。
内心で嘆息しながら、私は生理食塩水を作り直す作業に取り掛かりました。ですが、それを見咎めたソアラさんの怒声が止まりません。
「どうしてそんなものを作っているのです!?」
「これらは傷の洗浄と脱水の補正に必要なものなのです」
手を止めずに説明する私の態度は褒められたものではありません。ですが、いちいち邪魔するソアラさんが
「塩水で傷口を洗うなんて!?」
「落ち着きなさい」
悲鳴にも似たヒステリックな金切り声を上げてソアラさんが掴み掛かってきました。それを止めたのはハル様でした。
「今は一刻の猶予もないのです。ここは黙ってトーナ殿の指示に従いましょう」
「で、ですが……」
「あなたはトーナ殿に治療を頼んだのだ。それなのに、信用せず邪魔ばかりするのでは彼女も治療に専念できない」
「そ、それは……しかし、この魔女がメリルに塩水を……」
――魔女
またもや耳にする言葉に気持ちが沈む。
その言葉を口にして、誰もが私を拒む。
私は魔法なんて使える筈ないのに……
私は誰も呪った事なんてないのに……
この黒い髪がそんなにいけないのですか?
この赤い瞳がそれほど悍ましいのですか?
私は魔女で、信用に値しない人物ですか?
それなら、どうして私に頼んだのですか?
魔女に由来する闇夜の如き暗い記憶が私の胸に波のように去来して、感情の色がどす黒く染まっていく様に思われました。
沸騰したお湯から発生した蒸気が蓋を内から激しく押し上げているみたいに、奥底に隠していた私の闇が新たな闇を生じて心の蓋を破ろうとしているのです。
もう駄目……
これ以上は無理……
耐えられそうにありません……
血の気が引き、思考が上手く回らず、仄暗い思考に囚われて、私の心は恨みと憎しみに支配されていきました。
口がぱくぱくと動いて、私は音にならない心の叫び声を上げました――
そんなにあなたが私を魔女と
ならば治癒師ではない私にはあなたの娘を治療する
無意識に強く握った私の拳が小刻みに震えていました――
拳に握られているのは怒りでしょうか、悔しさでしょうか?
それとも変えられない現実に対するやるせなさでしょうか?
私の全てが闇へと堕ちていく中で、強く握った手が急に温もりに包まれて、ぽっと光が
――《用語解説》――
【輸液】
人体に直接水分、電解質、薬剤などを入れる為の液剤。トーナが用意したものは生理食塩水(0.9%食塩水)の他に、生理食塩水と5%ブドウ糖液を半々に混ぜた1号液です。
本来は直接静脈に点滴するもので、経口で摂取するものではありません。これに状況に合わせてカリウムを混ぜようとトーナは考えているようです。
輸液には低張電解質輸液の1~4号液の他にもリンゲル液(乳酸、酢酸、重炭酸と種類があります)、生理食塩液、各種濃度のブドウ糖液、アミノ酸輸液など様々な種類があり、それらを駆使して治療を行っています。
救急の現場では、この輸液が治療にとても重要な役割を持って行ます。