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第32話 常闇の魔女―診察―


 部屋に入ると私と同い歳くらいの女性が寝台に横たわっていました。


 栗毛色の髪に愛嬌のありそうな顔立ちの愛らしい女性です。ですが、今の表情はとても苦しそうで、喘ぎ声が漏れ、噴き出した汗に髪がべたりと額に張り付いています。


 彼女本来の快活な印象を損なってしまっているのが痛ましい……この方がメリルさんでしょう。


「こんにちはメリルさん」


 さっそくメリルさんに近づいて肩を叩きながら声を掛けました。すると、彼女は薄っすら目を開け、僅かに私の方へ瞳を動かしたのです。


「ここが何処か分かりますか? 今は何日ですか? 名前を言えますか?」


 僅かながら反応はありました。ですが、私の問いに応じられないほど彼女はぐったりとしているみたいです。


 私は彼女の手を取って軽く握ってみました。


「右手を握ってみてください……今度は離してください」

「何をしているのです。早く娘の治療をしてください!」


 患者の状態を確認していると、背後に立っていたソアラさんが焦れてヒステリックな声を上げながら私の肩を掴んできました。


「邪魔をしてはいけない。トーナ殿は患者の容体を確認しているのでしょう」

「そ、そうなのですか?」


 ハル様がやんわりとたしなめると、ソアラさんは慌てて私の肩から手を離しました。


「騎士団でも気を失っている者の初期対応で、ああして呼び掛けをしますよ」

「そうなんですね」


 ハル様が一緒に来てくれて助かりました。


 そもそも説明をしている余裕もありませんし、きっと私が幾ら言葉を費やしてもソアラさんは納得しなかったでしょう。


 心の中でハル様に感謝しながらメリルさんの診断を進めました。


 魔狗まく毒に侵されていると分かっているのに診断が必要なのかと疑問に思う方も少なくありません。ですが、同じ疾患であっても症状が同じとは限らないのです。


 それに、同様の症状でも重症度によって使用する薬剤を変えたり、同じ薬剤を使用する時でも用法用量を変えたりします。


 だから初期診断はその患者の治療の方向性を決める為にとても大事なのです。



 次にメリルさんの口と鼻の間に頬を近づければ、呼吸がハッハッと細かく荒い。腕に指を当てましたが弱すぎて脈拍を測れません。頸部でやっと測り取れた脈はかなり速いものでした。


 これは……


「呼吸は荒く、血圧は低く脈拍が速い、発汗も激しく体温もかなり高いようです」


 手の甲を摘んで離せば、皮膚の皺がすぐに元に戻らない。

 爪を圧迫してから解放しても、爪床そうしょうの色が赤に戻らない。


「肌の張りがない……肌も乾燥している。やはり脱水を起こしています」


 メリルさんは朦朧としてはいますが幸いにも意識があります。これなら経口から補水が出来るでしょう。


 経口摂取が不可能な場合は生理食塩水を血管に直接流し込む必要がありました。そうなってくると私の手には負えません。


 ファマスで生理食塩水を点滴する技術を持つ医師は限られています。


 点滴が必須な病状であったら、医師のテナーさんに頭を下げてでもメリルさんを診てもらうようにお願いするつもりでした。


 ですが、メリルさんにまだ自分の病状と戦う力が残っているようです。これなら助かる見込みは十分にあります。


 治療方針が決まりました。


 魔狗毒の治療は毒の排泄が重要ですが、今の状態で利尿剤や下剤を与薬するのは脱水を悪化させて死に至る危険があります。


 だから、まずは脱水の補正と毒の希釈……つまり、補水が必要です。


 それと同時に傷の洗浄も行わないと……


「ソアラさんは今から指定するものの準備をお願いします」

「は、はい。それでメリルが助かるのでしたら」


 忌避する私の指示をいとうのではないかと危惧しましたが、さすがに自分の娘の命が掛かっているのでソアラさんに否やはないようです。


 私一人ではとても対応出来るものではありません。彼女が承諾してくれたのは助かりました。


「俺も及ばずながらお手伝いしましょう」


 ソアラさんの返答から間髪を入れずに、ハル様も追随する様に助力を申し出てくださいました。


 正直に言えば国家騎士のハル様にお手伝い頂くのは気が引けます。ですが、中毒の治療には人手が必要でしたので、ハル様の心遣いをありがたく受ける事にしました。


「それでは清潔な布をたくさん持ってきてください。それと水分補給と傷口の洗浄用に大量の水が必要です。厨房へ行ってじゃんじゃんお湯を沸かしてください」

「わかりました」


 私の指示に頷いた2人は部屋を後にしました。


 さあ、私は私で二人が戻ってくるまでの間に、治療の準備をしておかなければ。



 すぐに必要な薬剤を用意しましょう。




――《用語解説》――

【初期評価】

 医療においてもっとも重要なのは病気の診断です。診断がつかなければ病気の治療はできないと言っても過言ではありません。

 しかし、血液検査や細菌検査、画像診断などそれらの結果を待っていては手遅れになるケースも多々あります。そのため、外傷、意識消失などで救急に運ばれた患者はまず初期評価としてFAST(Focused Assessment with Sonography for Trauma)を行うわけですが、当然この世界にはエコーがありあませんのでトーナが行ったのはABCDEアプローチの一部です。


A(Airway:気道) → B(Breathing:呼吸) → C(Circulation:循環) → D(Disability of CNS:中枢神経) → E(Exposure & Environmental control:体温)


 意識、呼吸状態、循環、体温などを診ていく初期診断で、地味ですがとても重要です。

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