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第30話 常闇の魔女―薬師の実情―


「もし、お待ち下さい!」


 少々……いえ、かなり強引なハル様にエスコートされて、私は領主館を後にしようとしました。が、突然その私達の背後から制止の声が掛けられたのです。


 振り返れば、伯爵と言い争いをしていたソアラさんが険しい表情でこちらに向かってきました。


「勝手に帰るなど酷いではありませか!」


 何の用かと私とハル様は訝し気に見ておりましたが、目の前までやって来た彼女は私に食って掛かってきました。


 しかし、彼女の言い分はなんなのでしょう?

 殆ど言いがかりではないかと思うのですが。


 ソアラさんの主張に隣でハル様も首を傾げておられます。


「そう仰られても……暇乞いとまごいは致しましたが?」


 帰る旨は伝えましたし、その折りに誰からも引き留められませんでした。


「ですが、私の娘の治療がまだ……」

「あなたは私の治療を拒まれたのではなかったのですか?」


 はっきりと口にされたわけではありません。ですが、ソアラさんの態度は私を完全に拒絶していました。


 私が暇乞いをした時、彼女が安堵の表情を浮かべたのも確かなのです。


「それは……あの……私は決してそんなつもりでは……」


 どうにもソアラさんの歯切れが悪いです。


「ソアラ殿、あなたはトーナ殿の眼前でバロッソ伯爵に別の療養師を要求していたではないか」

「そ、それは……その……」


 今まで甘い顔に優しい笑顔を貼り付けていたハル様の表情が一変。ソアラさんに向ける表情が険しくなりました。


 ハル様は常に物腰の柔らかい対応をされておられます。ですから、怒りを露わにされると自分に向けられた感情ものではなくとも鳥肌が立ち身震いするくらい恐いのです。


 直接その怒気を受けているソアラさんは顔面蒼白になるのも無理ありません。


「あなたは他の医師か薬師くすしを呼ぶつもりではなかったのですか?」

「それが……伯爵に聞いたところガラックさん以外の薬師には断られたみたいで……」


 どうやら、伯爵はガラックさん以外にも薬師に声を掛けていたようです。

 ですが、彼らには正しく理解できていたのです――自分達には無理だと。


「それはそうでしょう。伯爵にも申し上げましたが、魔狗まく毒に特効薬など無いのですから」


 それに咬傷こうしょうの治療をするとなると、患者につきっきりの看護が必要です。薬師には荷が勝ち過ぎます。


 一般的に薬師は来店した患者の自己申告を元に処方するだけの者が多いのです。精々が問診程度で触診などの診察を行うのことはありません。病床で看護をする経験を持つ者など皆無ではないでしょうか。


 ですから、まともな薬師なら己の力量をわきまえ、魔狗まく毒の治療に応じたりはしないでしょう。


「ガラックさんは薬をお持ちになりましたが?」


 ですが、ソアラさんは私の説明に納得できないようです。


「あれは胆薬であって、魔狗毒に有効な薬ではありません」


 ガラック薬方店は製剤の均一化という手法を編み出すほど薬の製剤技術は一流です。しかし、ガラックさんもグウェンさんも実地で病態を診て治療を施した事はないのでしょう。


 どんなに薬の知識を持っていても、それだけでは患者を前にした実際の治療において無力です。正確な診察と現場の経験を持たない彼らは、治癒師として未熟と言わざるを得ません。


「何度も申し上げておりますが、魔狗毒には解毒薬はありません」


 もう幾度目なのでしょうか。

 どうして私の言葉が伝わらないのでしょうか。


「魔狗毒の治療は、ただ薬を服用すれば治るものではありません。だから、私達薬師には荷が勝ちすぎるのです。今からでも医師に頼まれてはいかがでしょうか?」


 この方も伯爵と同様きっと解毒薬が必要と考えられていたのでしょう。

 そうでなければ魔女と忌み嫌う私にお願いしてくるわけがないのです。


 それに、魔狗毒の治療は医師に任せる方が適切なのです。

 患者の為にもここはきちんと提案をしないといけません。


 ソアラさんも私よりもそちらの方が喜ばしいでしょう。


 ところが……


「あなたは私の娘を見捨てるおつもりなのですか!?」


 何故かヒステリックに叫ぶソアラさんに、私は困惑を隠せませんでした。


 一体全体どうして私が見放した事になるのでしょう?

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