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41 水面下に揺れる

 午後の淡い日差しの落ちる室内で、そっくりな親子は優雅にお茶を飲んでいた。

 否、優雅なのは母の方だけ。娘のエリセは怖々とした様子で母を覗き見しており、その背は少しずつ丸まってきていた。


「……エリセ、しゃんとなさい」


 冷ややかに言われて、エリセはすぐさま姿勢を正した。


「はい。お母様」


 しおらしく返事をすると、フィルラは頷き、睨むような強い視線でエリセを射抜いた。

 その視線だけでエリセは気圧される。畏怖に再び背が丸まりそうになるが、エリセは堪えて視線を逸らす。


「エリセ。貴女はふさわしい結婚相手を見つけ出ないようですね。ドレスを作るのもお金も湯水のように使える訳ではありません。持参金だって用意しなくてはいけませんもの。そろそろ、見合いを考えてはいかがでしょう」


 ──でなければ完全な嫁ぎ遅れになります。なんて、低く付け足して、フィルラはため息と同時にカップを置く。


 どんなに夜会に行こうが、理想の相手と巡り会えない。良いなと思っても、母の気に入るような身分ではない。

 完全な窮地で絶望的だった。

 現在は八月。この雪国の夜会シーズンはあと二ヶ月と少しで終わってしまう。まだ十八歳なので、あと一年くらいは大目に見てくれないだろうか。そんな甘えた思考もあるが、厳しい母はきっと許してくれないだろう。


 こんな時、父ならば気にしないで良い。ゆっくり考えようなんて寄り添ってくれるはずなのに……。

 エリセの表情はどんどん曇っていく。


「エリセ」


 もう一度呼ばれた声は優しかった。エリセが怖々と視線を向けると、母は困ったような顔で微笑んでいた。


「……一つ別の案もあります。だけどこれは、あまり大きな声では言えないわ。こちらに来てくれないかしら」


 母は手招きすると、座っている場所を少しだけ移して、隣に座れと示す。従って、隣に座ると母はなんとも言えない笑みを向けた。

 そうして耳にかかる髪を優しく掻き上げられ──〝あの庶子を追い出すように仕向けて、貴女がソルヴィさんの妻になるのはいかがです?〟と、静かに告げた。


 その言葉にエリセはたちまち目を瞠る。


 隣部屋は父の部屋。幾ら寝込んでいようが、聞かれていない可能性も無きにしも非ず。こんな事を万が一にも母が提案していたなんて知られたら……。だからこそ、耳打ちか。だが、事が全て済んでしまえば、〝仕方なかった〟で片付くに違いない。


「嫌かしら?」


 同じ事を考えていたが、一人では叶わなかった事だ。エリセは首を振るう。


「私もそうしたくて動きましたの。でもダメで、私を拒絶するまでしてアレを選びました……」


 小声で言うと、母は紅色の唇を釣り上げて微笑んだ。


「大丈夫ですよエリセ、決定的な証拠や段取りさえ整えさえすれば……」


 唇を開く水っぽい音の後──「確実に追い出せますわ」と、母の声がねっとりと響く。


「お母様……」

「私はエリセの味方ですわ。可愛い私の一人娘ですもの。エリセには誰よりも幸せになって欲しいですもの」


 肩を抱き、優しく髪を撫でられた。

 ただそれだけで心が満たされる心地がする。一人ではどうにもならなくとも、母が手助けしてくれるならば。明らかに勝算はある。必ずあの女を追い出せる。そして、ソルヴィを自分のものに……。全部やり直しできるはず。

 エリセは母の腕の中で唇を緩めた。 


 ※


 エリセとのお茶が終わった後、フィルラは、机の引き出しから香り袋と鋏を取り出した。

 これは以前あの庶子……ノクティアから渡されたものである。冷めた目でそれを見るが、鼻を近付けると涼しくも優しい香りがして、フィルラはうっとりと目を細めるが、中身が溢れないようにと慎重に香り袋の布地に鋏を入れた。


 そうして今度はクローゼットに向かい、広口瓶を取り出した。

 両手で持てるほど大きさのそれには、スズランの花が大量に漬けられている。机まで持ってきて蓋を開けるとムワッっと、濃厚な花の匂いが漂った。


 そこに、香り袋の中身を入れる。ぱりぱりの花びらは液の中に入ると次第に透明になっていく。

 そうして杓で混ぜ合わせ、再びクローゼットに戻した。


 外を見ると、既に日が傾き始めていた。そろそろ使用人たちも忙しくなる頃……ようやく、夫と〝本当の二人きり〟になれる時間だ。


 フィルラはこの時間を見計らって、隣部屋に続く通路を通った。そうしてベールをくぐり抜けると、ベッドの縁に腰掛けた夫、イングルフの姿が映る。


 枯れ枝のようだと、いつものように思う。

 昔は細身で筋肉質。しなやかな印象の男だったが、今は見る影も無い。

 彼はフィルラにすぐ気付「やぁ」と、軽い挨拶をした。


「あなた、今日のお加減はいかがです?」

「相変わらず見ての通りだ。フィルラ、悪いが新しい水を持ってきてくれないか? エイリクに頼むはずだったが、今日は暑くてエイリクが来る前に飲み干してしまった」


 夫の要求にフィルラは頷き、ベッドの傍らに置かれた水差しを持つ。


「ええ、すぐに汲んで参りますわ。ゆっくりなさっていて」

「ありがとう」


 ヒースの色に似た薄紫の瞳を細めて、夫はほんのりと微笑んだ。

 そうして部屋を出たフィルラは階段を下り、水瓶が置かれた場所まで行くと、丁度その近くに使用人がいた。目が覚める程に赤髪の──。

 彼女は水差しを持つ自分の存在に気付くと、恭しい一礼をして、近付いてきた。


「大奥様、お水でしょうか。私が代わりに掬います」


 その派手さに見合わない、丁寧な言葉で傅かれる。フィルラは水差しを彼女に手渡した。


「ありがとう助かるわ」


 そうして彼女は水差しに水を満たすと案の定──部屋まで運ぶか侍女のスキュルダを呼ぶかと聞いてきた。


「いいえ、結構よ。この時間は夫と二人きりになれるの」


 気遣ってくれてありがとう。なんて伝えると、彼女はぱっと明るく笑む。

 目鼻立ちがはっきりとした顔立ちは女性なのにどこかハンサムで……。その表情は嫉妬してしまいそうな程に美人だった。こうも美しいのは、きっと若さ故もあるだろう。


 しかし、ふと別件が気になった。


「それより貴女、脚の具合はもう良いの? 納屋で酷い怪我をいたと聞いていたわ」

「……ええ、お気遣いありがとうございます」

「そう。お大事に。怪我に気をつけて」


 やんわりと微笑み、彼女から水差しを受け取って、フィルラは踵を返した。


 ……あの納屋の件は、全部自分が関与している。まさにあの使用人を追い出したかったから、侍女に命じて、他の使用人に細工をさせた。

 またそれよりずっと前。あの庶子、ノクティアのドレスを切り裂いた事件も、連れて来てすぐの折檻もそうだった。


 別にノクティア自体に罪は無い。

 しかし、この世に存在してしまったのが罪なのだ。


 フィルラ自身は庶子の存在を結婚前から知っていたし、侯爵家から明かされた。

 そもそも婚姻自体、愛情が無いものだった。ただの、政略結婚、否……契約結婚。イングルフは子を拵える事をしなかったし了承した。


 そもそもフィルラには婚前から恋人とも言い切れぬ、爛れた関係の男がいた。


 貴族の女の役目は──子どもだけ拵えれば良いだけだ。そして偶然にも結婚したその年にその男との子どもを妊娠した。


 そう、エリセはイングルフの子ではない。

 愛人の子と、イングルフも存じている。


 だが、彼は、エリセの父となった。父らしい振る舞いをして愛情を注ぎ、何でも与えようとした。子どもには何も罪は無いからと。仮初めであっても愛そうとした。きっと結ばれる事も幸せにする事もできなかった女と庶子への罪滅ぼしとして……。

 そして、フィルラにも同様に満足な生活をさせてくれた。決してそこに男女の愛は無いが、まるで親しい友人のよう。家族として仮初めの妻を大切に扱ってくれた。


 しかし、国境沿いで抗争が起きた事で、事態は一変した。

 その戦でイングルフは、ビョンダル伯爵に救われて、あの縁談が生まれたのである。


 庶子も女。エリセも女。男は生まれないだろう。だからこそ、おまえの所の息子に領地を譲ると……。

 これによって、エリセは庶子を知る事になった。当然フィルラとしても、自分の娘を爵位が低い者に嫁がせるのは嫌だったし、エリセも婚姻を拒んだ。よって、婚姻は庶子に背負わせる形となり、エリセには自由恋愛をさせる運びになった。


 だが、エリセは酷く傷付いていた。

 愛してくれた父親に庶子がいた事を酷くショックを受けて、泣き濡れた日々を送っていた。そんな場面に更に追い打ちになってはいけない。だからこそ、エリセにイングルフとの血縁が無い事は話さない事に一致した。


 愛娘の心を踏みにじった報復だった。

 イングルフの犯した罪が生んだ存在を、痛めつけ傷付けなくては気が済まなかった。そして勿論その報復はイングルフにも……。


 フィルラは部屋に一旦戻ると遮光便を取り出すと、水差しの中に二滴、三滴……と数滴の無色透明の液を入れる。そして再び水差しを持ちフィルラは夫の部屋に向かった。


颯爽と歩む彼女が通りすぎた後、ほんのりと涼やかな花の匂いが残った。




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