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40 望まれる願い

 エイリクに連れてこられた場所は、あの忌々しい思い出ばかりの応接間ではなかった。

 正面の玄関付近の階段を上り、本邸最上階へ辿り着く。


 来た事も無い場所にノクティアは困惑した。 


 そうして突き当たりの部屋の扉をエイリクは叩く。中から返事は無い。だが、エイリクはそれも構わずにドアを開けて、ノクティアに入るように促した。


 何となく嫌な予感がする。

 訝しげに眉を寄せたノクティアだが、部屋に入るなり、目を瞠って固まった。


 その部屋のベッドに腰掛けて窓辺を見つめる男の後ろ姿がある。ほとんど白髪だらけの灰金髪。まるで骨と皮だけ。頼りない程に細い背中の男だった。


 しかしノクティアが釘付けになってしまったのは、この男から感じる、今にも消えそうな生命力だった。まるで風前の灯火と言って過言ではない。


 魔女になって初めて、人の死期の近さが目に見えて分かった。

 微かな生命は、懸命に燃えようとしているのが分かる。

 それは、まるで空気が凍てつく極夜の暗闇の中にまたたく星のようだと思った。それが分かるのは、自分が冥府ヘルヘイムの女神の加護を授かった魔女だからか……。


 ノクティアは呆気に取られたまま動けなかった。

 しかし、この男が誰か。ノクティアはすぐに想像できた。


「イングルフ様、ノクティア様をお連れいたしましたよ」


 エイリクの言葉は案の定だった。

 前触れもなくて、随分と強引な面会だ。

 しかし、ノクティアの父──イングルフは頷くだけで、こちらを見ようともせず、何も言わない。


 三秒、四秒、五秒と時間は過ぎるが、窓辺を向いたまま何も言わなかった。


「エイリクおじさん……」


 ノクティアはエイリクの袖を引いて首を振る。


「悪いけど私はこの人と話す事は何も無い。それに何も話さないのに、呼び出された意味も分からない」


 静かにそう告げてノクティアが部屋を出ようとした矢先だった。


「待ってくれ……」


 穏やかな嗄れた声だった。振り返ったイングルフとしっかりと目が合った。

 彼はノクティアを見るなり大きく目を瞠るが、すぐに悲しげに面を歪めて、顔を背けた。


「なんて事だ」


 骨張った手で顔を覆い、彼はそんな言葉を小さく呟いた。


 しかし目を瞠っていたのはノクティアも同じだった。本当に自分と同じ、ヒースを思わせる薄紫の瞳をしていた。


 面輪はさして似ていないが、表情が似ていた。

 どこからどう見たって、この人が自分の父に違いない。それを嫌でも痛感して、ノクティアも彼と同じように表情を歪めた。


「来てくれ……少しだけ話がしたい」


 ノクティアはエイリクに促されて、イングルフの座るベッドの傍の椅子に座した。

 近くで見る程、本当に自分がこの人の娘だと分かりノクティアは消沈する。目元は似ているかもしれない。自分を見ているように、些細な表情が似ているのだ。


 しかしイングルフは変わらず何も語らない。静かな時間が流れるが、目眩を覚えるほど長く感じた。だが、その唇は震えており、やがて緩やかに唇が開く。


「少しは生活に慣れたか?」


 ノクティアは目もくれずに頷いた。


「……ここでの生活に不自由はないか。欲しいものはないか?」


 その問いかけにノクティアは困惑した。だが腹の中でふつふつとした怒りが沸き上がる。


「別に何も無い。私が欲しいものは、もう無い」

「どういう事だ……?」


 受け答えは早かった。訝しげに眉を寄せてイングルフはノクティアを見る。


「そんなの私に聞かないでよ。ママに……ママに……聞いてあげれば良かったじゃない!」


 剣幕になってノクティアが怒鳴り散らす、彼は震えた唇で自分の名を呼んだ。


「……ノクティア」


「気安く私の名前を呼ばないで! あんたなんか嫌い。許せない。大嫌い。ママは……ママは死んでしまう最期の時まであんたの名前を呼び続けた! 私の名前は呼ばなくなった! あんたのせいでおかしくなった。不自由ばかりの生活だった、欲しいものだってあったと思う」


 ──どうして、あんたは助けてくれなかったの。私は、ママさえ居れば良かった。

 小さな声でノクティアは呟いた。


 頭の中で病気になって壊れた母の姿が浮かんでくる。

 愛してる、会いたい。何度も何度もこの男の名を呟いて、娘の名前なんて呼ばなくなった母を。惨めな母を、寂しい思いをして一人泣く惨めだった幼かった自分を。冷たい海に沈んで冥府ヘルヘイムへと渡った母を……。


 視界は溺れるように潤った。瞼を閉じれば目の前が真っ赤だった。燃えるように目が熱い。


「あんたなんか、大嫌い、嫌い。私のママを返してよ! 私の家族を返してよ!」


 叫べば、大粒の涙が頬を伝い落ちる。視界の先の父、イングルフがどんな顔をしているのかノクティアは分からなかった。けれど、自分と同じ薄紫の瞳はじっとこちらを見つめているのは分かる。


 手の甲で涙を拭い、肩で呼吸する。胸が破けそうで苦しくて堪らない。

 エイリクがハンカチーフを差し出してくれるが、ノクティアはそれを撥ね除けた。


 ややあって、イングルフは乾ききった唇を再び開いた。


「……ノクティア。俺が嫌いでもいい。憎み続けて良い。謝っても許されない事をしたのは事実だ。ただ二つだけ伝えなきゃいけない。俺はおまえの〝ママ〟を愛していた。ヘルヘイムで何度も詫びるさ。俺はそう遠くないうちに死ぬ。おまえは先がある。これから家族を作れ。幸せになれ」


 突然の言葉に思考が回らなかった。

 しかし、母を愛していたと。ならばどうして、エリセの母フィルラと結婚したのだ。どうしてエリセが生まれたのだ。どうして見殺しにしたのだ。

 あまりに無責任な言葉にノクティアは唇を拉げた。


「ふざけないで……ママを見殺しにした癖に! 私の事なんてどうだっていい癖に!」


 癇癪を起こしたようにノクティアは怒鳴るが、イングルフは否定せず、真っ直ぐにノクティアを見据えた。その中には、揺らぐ事も無い強い意志をたたえている。

 はっきりと視線が絡んだ。とてもではなく、今にも死にそうな人間のものとは思えない力強い眼光にノクティアは一瞬にして気圧された。


「……ノクティア。今度はおまえが母親になれ。それで幸せになるんだ。おまえはもう大人だ、おまえが欲しかったものを子どもに与えなさい」


 強い眼光でイングルフはノクティアを射貫き、厳かに続けた。

しかしその眼光の奥には優しく温かなものが、確かにあった。

 それが、あまりにも信じられなくて……。


「いいか、ノクティア。おまえも知っているだろうが、ソルヴィ君は良い青年だ。おまえを誰より思い、意志を尊重している、だからこそ、お願いだ……おまえが命を繋いでくれ。俺は、おまえにだけには幸せになって貰いたい」


 そう言って、イングルフはノクティアを真っ直ぐに見つめた後──深く頭を垂れた。


「頼む。おまえは必ず幸せになってくれ」


 どうして頭を下げるのか。どうしてこうも、命を繋げというのか。なぜ、この男が幸せを願うのか。

 顔は熱く、涙は鬱陶しいほどに止まらず、呼吸も苦しい。叫びたい言葉は山ほどあるのに、まるで呪われたように言葉が出てこなかった。


 沸き立つような怒りはある。だがそれ以上に、悔しくて、悲しくて、やるせない。ノクティアは無言のまま立ち上がり、部屋を飛び出した。


 大粒の涙を流し、顔を真っ赤にしたノクティアは階段を飛び降り、廊下を駆けた。擦れ違う使用人たちは皆ぎょっとした顔でノクティアを見る。


 そうして渡り廊下を駆け抜け、離れに辿り着く。

 部屋に入ってすぐにソルヴィと目が合った。


 どうしてだか、彼を見ると余計に涙が溢れて止まらない。

 しかし、今更のように、父のあの言葉を理解した。


 自分は使用人たちに不妊症と囁かれている。だが、あの様子ではきっと父は、ノクティアたちが白い関係だと知っているのだろう。


 誰よりも思い、意志を尊重していると……。


「ノッティ? どうした」


 尋常で無い様子にソルヴィはすぐにノクティアに駆け寄った。その途端だった。


「っ……う……ぅうああああ!」


 堰を切らしたようにノクティアは慟哭する。


 確かに彼が自分の家族だ。戸籍上では唯一の家族に違いない。だけど母は、もうこの世界にどこにもいない。変わりなんていない。とっくに分かり切っている事なのに、どうして今更のように……。


 様々な感情が溢れた。

 自分はただ一人になるのが怖いのだ。母のように惨めになりたくない気持ちもあるが、それ以上に一人ぼっちで取り残されるのが怖いのだ。

 様々な認識が歪んでいた。本当は誰も愛せない、愛したくないのではない。


 愛するのが怖いのだ。

 ……愛故に、孤独になるのが怖いのだ。


 ノクティアはソルヴィの縋るように抱きついた。


「ソルヴィ、お願い。私を……もう、一人に、しないで」


 ママみたいになりたくない。

 一人は寂しい。

 私を置いていかないで。


 初めて理解して、口にした本心は痛い程に胸を締め付ける。

 呂律なんて回っていなかった。しっかり聞き取れているか分からない。だが、ソルヴィはそれを理解したのだろう。身を屈めてノクティアを強く抱き寄せ、何度も頷いてくれた。


  ※


 茜の射し始めた部屋で、使用人の男は痩せこけた元当主の背中を眺めていた。


「……あんなに当然、強引に会わせるなんて。あれで本当に良かったのですか」


 エイリクの問いにイングルフは頷いた。


「いいんだ、俺はもう先が長くない。伝えなきゃいけない。話せるうちに会いたかったんだ。嫌われようが、憎まれようが、それでも会えただけで良かった……」


 遠い空を見つめる彼の瞳は僅かに潤っている。


「このままでは、あの子は屋敷に居られなくなる。フィルラがどう動くかなんて容易く想像できる」


 イングルフは瞑目し、消え入りそうな声で呟いた。



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