「ノッティ明日は一緒に出掛けないか?」
溜まっていた仕事が一段落したらしいソルヴィからそんな誘いを受けたのは昨晩の事だった。
そうして明朝、ノクティアは彼の愛馬に一緒に乗せられて海岸線を走っていた。
鏡のような穏やかな海の広がる朝の海岸線が清々しいものだった。
しかし、何も食べずに起きるなり軽装に着替えて屋敷を出たので、少しばかり腹が減っていた。
それを訴えるように、きゅぅ……と情けない音が腹から響く。乗馬しているので気付かないだろう。そうは思ったのに、背が震え頭の上から小さな笑いが降ってきた。
「後で朝食にしよう。俺も腹が減ってる」
気付かれたのが無性に恥ずかしかった。ノクティアは耳を真っ赤に染めて黙って頷いた。
それから馬を走らせる事、幾何か。辿り着いたのは、懐かしいあの狩猟小屋だった。
半年ぶりだ。しかし、ソルヴィが頻繁に訪れているのか……あるいは、彼の家族が来ているのか不明だが、部屋は綺麗なままだった。
そうして彼は屋敷から持ってきてくれた、パンと葉野菜、そしてチーズに燻製されたサーモンでサンドイッチを作ってくれた。隠し味は少しだけ蜂蜜とマスタードを混ぜたもの。
随分と久しく彼の手料理を食べた。
「相変わらずソルヴィって料理が上手だよね。出会った時も思ったし、前に作ってくれたホットチョコレートも美味しかったもん」
「はは。サンドイッチは詰めるだけだ。ホットチョコレートだって溶かすだけだぞ」
料理と言えるか分からない。なんて彼は苦笑いするが、ノクティアは首を振る。
「美味しいものは美味しい、私は好き」
包み隠さない素直な言葉だった。
その言葉に、ソルヴィはたちまち目の縁を赤く染めた。
こんな表情は時々見るが、こうも大きな男なのに可愛らしい気がしてならない。
「ソルヴィ照れてるの? 赤くなってる」
なんか可愛い。なんて悪戯っぽく指摘してやると、彼は慌てて顔を背け──
「ノッティの方が可愛いだろ。いつも思うが小さい口でむしゃむしゃしてる時、ウサギみたいだ」
なんて返されるのであった。
そうして食事を終えてから二人は浜に向かった。
本日の一番の目的はこのフィヨルドの湾で釣りだそうだ。浜から小舟を押して、二人は波もない静かなフィヨルドの海に出た。
舟に乗るのは初めて。そして、釣りも初めての経験である。海から見る広大なフィヨルドの景色や豊かな針葉樹林にノクティアは圧倒された。
──高い岩場から注ぐ滝に、海と合流する前の小川にいるアカシカの群れ。キツネやウサギなどの動物がいた。
それに、湾には、魚の群れを追い掛けるアザラシの姿やぷかぷかと浮いているラッコの姿もある。
都市部に住んでいたノクティアが見た事も無い動物ばかりだ。あれは何か。ソルヴィに聞けば、何だって教えてくれた。
嬉々として興奮するノクティアが珍しいのだろう。オールを漕ぎ舵取りするソルヴィも嬉しそうであった。
そうして二人で釣りをする事、一時間以上。釣果はマスが二匹だけ釣れた。一匹に関してはなかなか大きさもある。屋敷に帰って、侍女たちとジグルド、エイリクにも振る舞おうという話になり、再び浜に戻ろうとした矢先だった。
以前嗅ぎ覚えのある、甘くすえた異臭が僅かに漂った。
怖くて苦い記憶が蘇りノクティアが怯えた表情になった途端──近くの茂みが揺れ、牛の鳴き声にも似た悲鳴が劈いた。
恐ろしい勢いで針葉樹林から姿を現したのはヘラジカのこどもとヒグマだった。
ヒグマは牙をむきだしてヘラジカの子を襲おうとする。
その時、更に巨大な影が迫り来た。成体のヘラジカだ。恐らく襲われていた子鹿の親だろう。流木のような立派なツノを生やした親は低く鳴きヒグマに立ち向かう。
しかしマズイだろう。いくら巨体とはいえ、草食動物が肉食動物に勝てる訳が無い。このままでは親子とも殺されるのではないのか……。
ノクティアは慌ててスキルとヴァルディを呼び出そうとしたが、ソルヴィがそれを遮った。
「ダメだノッティ。自然の事は人間が介入しちゃいけない」
「でも……」
「ダメだ。可哀想かもしれないが、手助けすべきじゃない」
諭すように言われてノクティアは大人しく座る。しかし、命を刈り取られる断末魔のような悲鳴なんて聞きたくない。
「じゃあ早く帰りたい」
その言葉に心中を察したのだろう。ソルヴィは頷き、舟を漕ぐのを速めてくれた。
それから間もなくだった。ヘラジカの太い鳴き声に驚き思わず振り向けば、ヒグマが逃げるように帰って行く様が見えた。意外な勝者だった。
「ヘラジカの勝ちか。あいつら、かなり気性が荒いんだよな」
ソルヴィはほっとしたような顔をしながらも笑う。
何やら、ヘラジカはトナカイやアカシカと違って人間にもまず懐かず飼い慣らす事もできない程に凶暴らしい。そんな血の気の多さだ。なので、こうして襲い来る獰猛なヒグマもクズリも追い払う事もあるそうだ。
そうしてヘラジカから逃げていくヒグマの向かった先を見てノクティアは驚いた。そこには小さくてコロコロとした子グマが二匹いたのだ。幼獣の姿はあまりに可愛らしい。それは、まるでぬいぐるみのようで……。ノクティアは食い入るように見つめてしまった。
しかし、何とも自然とは残酷に思う。どちらも子を思っての事だった。
「あのヒグマ、子どもにごはんあげたかったんだね」
「そうだな。ヘラジカは子を守りたくて、ヒグマは子に餌をあげたかった。お互いに譲れなかったんだろうな。親だと尚更にそうかもしれない、どちらも犠牲にはしたくないに決まってる」
仕方なかったのだろう。そう付け添えた、ソルヴィの言葉にノクティアは黙って頷いた。
介入せず本当に良かった。もしあのヒグマをもし殺してしまうだとか、怪我をさせてしまえば、あの小さな子グマたちが……。
ノクティアはほぅ……と小さな息をつき、ソルヴィに目をやった。
「止めてくれてありがとう。ソルヴィの言う通りだね。人間が自然の事に介入しない方が良い」
素直に礼を言うと、ソルヴィは深く頷いてくれた。
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ノクティアとソルヴィが屋敷に帰ってきた時には、すっかり辺り一面がライラックに染まり暗くなりつつあった。
マスは釣ってすぐにソルヴィが血抜きをしていた。そして今、包丁を入れて開かれた一匹のマスはローズマリーやフェンネルなどの薬草にニンニクと塩で味付けされて調理場のオーブンに入れられたらしい。そしてもう一匹は……現在、離れの中庭でじゅうじゅうとあぶり焼きにされて香ばしい香りを漂わせていた。
焚き火台だとか竈なんて無い。なので、そこらへんに落ちていた石を積み上げて作っただけの簡易的な台だ。
そこにはイングリッドやジグルドもいて、皆焚き火を囲って、ソルヴィの釣り上げた大きなマスを興味深そうに眺めていた。
「しかし、ノッティたちが手入れしているからこの中庭もだいぶ綺麗になったな。折角だし今度この中庭に竈と焚き火をする場所を作るのも良いかもな……こうして皆で囲って和める場所を作るのも良さそうだ」
ソルヴィの提案にノクティアは目を輝かせて何度も頷いた。
「焚き火する場所! いいね。秋になったらそこで、馬鈴薯や南瓜を焼いて、みんなで食べたいかも。それとソルヴィの料理もたまに食べたい」
そんな風に言うと、彼は目を丸くするも、嬉しそうに頷いた。
「へぇ。旦那って料理するんだ、意外」
「らしいぞ。ジグルドも習ったらどうだ? 男で料理できるのはなかなか良い。嫁いだ女が楽できる、確実に」
「……姉貴は結婚する予定でもあんのかァ? こんなガサツ女を貰おうとする猛者はいたもんか」
呆れた調子で言うジグルドにイングリッドはげんこつを与えていた。ソフィアは必死にイングリッドを宥めている。
ジグルドが加わった事で恒例となりつつある姉弟のしょうもない喧嘩は存外面白い。
ソルヴィとノクティアは思わず笑ってしまう。ソフィアに関しても穏やかな表情で二人を見て微笑んでいた。
「しかし……竈や焚き火となると、煙も出るし、フィルラ様にごちゃごちゃ言われそうな気がするな。今のコレも後で何か言われ……そうな気もする。まぁ、イングルフ様だったら笑って〝いいなそれ〟って言いそうだ」
──イングルフ。彼の口から初めて聞いた父の名にノクティアは固まった。
この和やかな空気で気が緩んで出したのだろう。
ソルヴィは前髪を掻き上げ小さく唸った後、ノクティアを見て「悪い」と一言詫びた。
「……別にいいよ。ソルヴィは会ってるんだね」
「ほぼ寝たきりとはいえ、ご存命だ。そりゃ会うさ。何度も会っている」
少し申し訳なさそうにソルヴィは言う。
彼も彼で気に掛け、話題に出さないようにくれて、気を回してくれていたのだとそれだけで充分に分かった。
「気にしてないし謝らないで」
今一度言うと。彼は少しホッとしたのか、口角を緩めた。
しかし、そんな提案を笑って承諾しそうだとは……。
以前、麓街の人の話を聞いた時も思ったが、やはり父親は自分の想像と違う気がする。
この屋敷に来てもうすぐ一年経とうとするが、まだ会っていない。無論、会う気も無いが……。
しかし、母が壊れるほど愛した男はいったい、どんな人間だろう。ノクティアはほんの少しだけ気になり、本邸の方向に視線を向けた。