七月の終わり。夏の温かな日差しの降り注ぐ応接間の窓辺で前侯爵夫人──フィルラは安楽椅子に座ってお茶を啜っていた。
叩扉して入室するなり、見たその光景は夏の幻影のよう。まるで絵画のようだとソルヴィは思ったが、彼女が振り向くなり緊張の糸が張った。
「ソルヴィさんいらっしゃい。どうぞおかけになってください」
極めて優しい口調ではあるが、やはりどこか冷めていて棘を含んでいる。
ソルヴィはソファに座すと、彼女はカップを持って移動し、対面に座す。
「ソルヴィさん。なぜ呼び出されたか分かりますわよね?」
こんな台詞、以前にも聞いた事がある。既に何を言わんとしているか分かっていた。
ソルヴィは「俺の側近の事ですか」と単刀直入に答えた。
今日やるべき執務も残っている。こんな場所で油を売っている暇は無い。さっさと話し合いは終わらせたかった。
「あら、よくお分かりになりましたね」
フィルラは目を細め、ソルヴィを見据え──「弁解をまず訊きましょう」と付け添えた。
「弁解も何も、ジグルドは私の部下で後輩に当たります。王国騎士の称号を得ておりますが、問題でも」
これは事実だ。この半年の間でジグルドは騎士の称号を得た。とはいえ、特別待遇だ。本来、ルーンヴァルトの騎士の称号を得るには最低でも五年が必要だ。だが、ジグルドは半年で取得した。つまりは称号の前借りである。
ソルヴィの騎士階級は上位だ。若くして指揮・指導を行う資格を充分に得ている。なので、働かせながら騎士として育てる形を取らせて貰ったのである。
ノクティアの立場を守るため──そうまでして欲しかった人材だ。
それに事実、ジグルドは見立て通りに筋が良かった。少年期に散々世話になった自分の師にさえ、ジグルドの筋の良さを褒め称えた程だった。
『あんな腐れた街──ロストベインのごろつきに、ここまでの逸材がいると思わなかった。これはたまげた』
どんなに打ちのめそうが立ち上がり、食らい付く執念深さ。そして何よりもその俊敏さ。その様はまるで凶暴な大型イタチ──クズリのようだと喩えられた。
──ビョンダルのヒグマが、ロストベインでクズリを見つけ出し連れてきた。猛獣が凶獣を呼んだ。と、そんな反響を呼んだ程だ。
そもそも騎士の世界は実力主義だ。
ジグルドはいずれ上位の騎士階級を得るのも夢ではないだろう。
話を端折りながらもフィルラに伝えるが、彼女の眉間の皺は濃くなるばかりだった。
「貧困街のごろつきを二人も雇うだの、どうにかしています。使用人たちが怯えてしまいます」
「姉のイングリッドもよく働きます。使用人たちにも馴染んでおりますし、エイリクたちに可愛がられています。弟のジグルドも人相は悪いですが、根はなかなかに真面目です。俺は良い人材と見極めれば、どんな身分や生まれでも使うだけです」
極めて効率重視に。とソルヴィが淡々と答えると、フィルラは話にならないとでもいったそぶりで首を振り、眉間を揉んだ。
「それとソルヴィさん……話が変わりますが、あなた少し前にエリセを泣かせたらしいですね」
唐突な話題転換に、ソルヴィは小首を傾げる。
いつの話だ。そんな事は身に覚えは……と、記憶を探る中で、以前エリセが茶会を誘って来た件を思い出した。あれは夏至祭より前。二ヶ月以上前の話だ。
「随分前の話ですね……」
「あの子はまだ十八歳です」
「ノクティアより一つ年下ですよね。エリセ様は立派な淑女なはずです。妻を持つ男にベタベタと触るものでもないのは分かるでしょう。まして妻が居る前で……」
極めて冷静にソルヴィが答えた瞬間だった。紅潮し、わなわなと震えたフィルラはテーブルを叩いた。
「──いい加減になさい!」
耳が痛くなる程にヒステリックに叫んだので、ソルヴィは目を細めた。
「貴方の妻は、あの庶子は! 半年以上経っても妊娠しない。離縁を考えたらいかがです!」
あんな痩せっぽち、産めるかだって分からない。まだ、エリセの方がふくよかだ。今からでも遅くない、エリセを妻にしたらどうか。
その旨を訴えられて、ソルヴィは心底呆れた。
……伯爵家の次男。身分を気にして婚約を拒絶してきた。それなのに、なぜにノクティアが妊娠しないだけで、自分の愛娘を再婚相手にしろというのか。
結婚当初は祝福さえしたのにだ。
自由に恋愛をさせてあげたいだとか、身分の高い男に嫁がせたいだのそういった部分が垣間見えていたが……それが上手くいっていないのだろうか。だから、こんな事を言い始めたのだろうか。どこまで傲慢な思考なのだろう、理解が追い付かない。
この親子を抱えて、何十年も身分だの言われて過ごすのかと思うと気が重い。
ソルヴィは深く息をつき、フィルラを真っ直ぐに見つめた。
「……フィルラ様、現在当主は私です。貴女がいくら前侯爵夫人だとしても、その答えには応じません。前当主のイングルフ様もノクティアとの事は焦る事はないと仰っています。あの子は強引に決められた理不尽な自分の運命を受け入れた。そして、俺の妻になった。そんな妻を誰よりも大切にしたいです。たった半年、妊娠しないだけで、わざわざ離縁しろというのです?」
夫人はあくまで夫人。やはり当主──男の立場の方が強い。彼女の夫、前侯爵の名を出すだけでフィルラらは口を噤み、深く息を吐く。
「取り乱しましたわ……すみませんね」
「いえ」
もう話し合いも充分だろう。これ以上話したくもなかった。
「本日終わらせなくてはいけない執務が残っています。私はこれで失礼します。フィルラ様、どうかゆっくりなさってください」
極めて穏やかに、最上級に気遣うように。ソルヴィはフィルラに恭しく一礼をした後、退席した。
※
その頃、ノクティアは中庭のベンチに座してスキルとヴァルディにパンを与えていた。その傍らでジグルドは一心不乱に腕立て伏せをしていた。
カップ状の大輪の花を付けた蔓薔薇は見頃を迎えてほんのりと甘い芳香を漂わせて綺麗に咲き乱れている。その付近にはラベンダーも花を付けていた。
目にも華やかで非常に穏やかな昼下がりである。視界の一部が暑苦しいが……。
──ソルヴィに騎士団に連れてかれて半年間の軟禁。ビョンダルのヒグマとも言われる猛獣騎士ソルヴィが貧困街ロストベインからクズリのように素早く執念深い男を見つけ出しただの、凶獣だのもてはやされただとか。
しかしロストベインのクズリとは……。
男という生き物は、そういう名付けや肩書きが好きなのだろうか。ノクティアは半眼になる。
「ジグルド……何もここで鍛錬しなくても良くない?」
堪らず言うと、彼はようやく腕立て伏せを止めて汗を拭う。
「ノクティアの護衛も仕事だって、旦那に言われてンだよ。おまえの義妹やそのとりまきの侍女だか使用人やべぇんだろ?」
「ここまで来ないよ。あのね、ずっと一緒に居られても暑苦しいの」
そんな風に言うと、スキルは『まぁまぁ』なんて宥めて、ヴァルディも『心配してくれるだけ良い奴じゃん』なんて笑う。
「そういえば、そのカラス……おまえのペットか? よく懐いてよなァ」
思えばまだ説明していなかった。しかし全部を話すのは大変だ。もしかしたらイングリッドが話すかもしれないし……。
なので「そう」と適用に答えると、案の定ヴァルディが噛んでくる。
一応加減はしているだろうが、なかなか痛い。
「ヴァルディ痛い! 説明が面倒なの!」
堪らずヴァルディの額を指で突く。そんな最中だった。部屋の方からイングリッドとソフィアの話し声が聞こえてくる。
本邸での業務も終わったのだろうか。二人を見た途端だった。
「なぁノクティア、そういえばさ……ずっと気になってたけど姉貴といるあの子は?」
ジグルドの視線は真っ直ぐにソフィアを見つめていた。その視線はどこか熱っぽくて……。
「どうして?」
「可愛いと思って」
ちょっと気になっただけ。と言うジグルドにノクティアは呆れたように笑う。
「ソフィアだよ。私にもイングリッドにも良くてくれてるの」
「ふぅん、ソフィアか。いい名前だなァ」
感嘆とするジグルドの視線は妙に熱っぽい。ああ、これは一目惚れというやつだろうか。恋愛感情に疎いノクティアでも何となく察した。
思えば初対面の時、玄関前のアプローチで一緒に居たソフィアをチラチラと見ていたから。
「……というのか、私を好きとか言ってたのに切り替え早いね」
ノクティアは揶揄うように言ってやると、ジグルドはたちまち半眼になる。
「馬鹿。傷心したに決まってンだろ。それでも、人の女を略奪するほど俺は腐ってない。何よりあの旦那だ。褒め上手のお人好し、良い奴だ」
──ソルヴィの旦那が好きだから任せられる。とジグルドは笑う。
その笑顔は子どもの頃からずっと親しんできたものと同じだった。見た目は随分と変わったが、それでも彼は彼だ。強面な癖に、姉にはめっぽう弱く、仲間思いで……真っ直ぐだ。
何も変わっていない。その事実に、ノクティアは安心して微笑んだ。