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32 白夜に叶った密かな憧れ

 ルーンヴァルトの六月は、一年の中で最も活気が溢れている。なぜなら年間でも最も日が長いから。夏至に至れば、一日中太陽の沈まない白夜となる。


 この地の夏は短い。だからこそ太陽の恵みに感謝し、各地で夏至祭が行われる。


 そんな今日、ノクティアはソルヴィや侍女たちとともに麓の街の夏至祭に行く事になった。祭の来賓として招かれたのである。

 そして今日ノクティアは街の人たちの前に初めて、彼の「妻」として立つ。

 しかし、前侯爵の庶子だ。以前の家庭教師事件もあって、ノクティアは寸での所まで一緒に行く事を渋ったが──


「今年の夏至……今日が偶然にも俺の誕生日なんだよな」


 ……俺の我が儘だが、折角の夏至祭ユハンヌスだしノッティと一緒に過ごしたい。


 そう言われてしまうと、断る事もできなかった。誕生日の人間に、残念な顔なんかさせたくもない。


 しかし夏至の季節の生まれと……。

 ルーンヴァルトの言葉で〝ソル〟は太陽を意味する。ソルヴィの名は太陽を由来しているので夏生まれだろうと想像できたが、まさか本当に夏至だったとは。


 しかし、極夜の冬至周辺の生まれ……夜を由来する名の自分とは正反対だなとノクティアは改めて思った。


「ソルヴィって今年で何歳なの?」


 臙脂色のジレのボタンを留めるソルヴィに聞くと、鏡の中の彼と目が合った。


「二十五歳だが……あれ、年齢は言っていなかったか?」

「うん。誕生日も初めて知ったよ」


 本当に初耳だった。自分より五つくらい年上だろうなと思っていたが……。


「……出会いから本当に色々とあったからな」


 懐かしむようにソルヴィが言うのでノクティアはクスクスと笑いを溢す。

 自分は思ったよりも彼の事を知らなかった。興味を持たないようにしていたからだろう。

 しかし今では不思議と、こうして一つを知ると、もっと別の事も知りたくなってくる。


 ノクティアは立ち上がり、ソルヴィの隣に立つ。

 鏡に映るのは、小柄と大柄の凸凹夫婦だった。


 ──臙脂色のジレとベスト、濃紺のジャケットとスカート。彼のカフスボタンにはノクティアの瞳に似た薄紫の宝石のついたカフスボタン。そしてノクティアが付けているイヤリングには彼の瞳に似た蜂蜜色の琥珀が揺れている。


 二人の纏う民族衣装──ブーナットはまさに対。

お互いを思わせる色合いで合わせられていた。


 自分がちんちくりんなあまり、大きく開いた身長差は〝お似合い〟ではなく不格好かもしれない。彼に恥をかかせないだろうか。領民たちはどう思うのか。ほんの少しノクティアが考えてしまうと、彼はノクティアの腰に腕を回す。


「緊張しなくて大丈夫だ。俺がいる」


 姿見の中の彼はノクティアを真っ直ぐに見つめていた。

 以前この屋敷に来た時にも似た言葉をかけてくれただろう。彼の言葉と低く平らな声は、根拠なんてなくともノクティアを安心させてくれた。


 まるで心の中の氷雪が溶けて、極夜が開けて空が白み始めたような心地だった。

 彼に出会ってから、知らない感情や気持ちが増えた。それは日に日に増していくようにも思う。けれど、今ではもう、そこまで不安に思えなかった。


「頼りにさせてね」


 ノクティアが言うと、彼は破顔した。

 そうして心底愛おしむような視線を注がれる。

 それが擽ったくて仕方ない。こんな視線はまだ慣れなかった。ノクティアは赤くなってそっぽを向くと、「さて行くか」と腰に回された手が離れようとした。


 その瞬間、ノクティアは彼の手を逃がさぬよう握りしめた。

 突然の行動に驚いたのだろう。彼は目を丸くしてノクティアを見下ろす。


「……だめ、肝心な事言い忘れてたよ」

「どうした?」

「ソルヴィ、お誕生日おめでとう」


 その言葉に彼の目の縁はたちまち赤く色付いた。口角は緩み、心底愛おしむ視線を注がれる。そうして一言礼を言われた後、額と頬に口付けの雨が降ってきた。


 ---


 民家の軒先、石畳の道の至る場所が花で溢れ、中心部にある広場には蔓性植物や白樺の葉、沢山の花で飾り付けた立派なポールが立てられている。

 思えばこの街に来たのは、結婚式の行われた日以来だろう。

 エリセの暗殺を企てた時にパンを買いに立ち寄った事もあったが……。


 しかし季節が変わると、こうも表情が違う。プラタナスの並木は濃い青に色付き、広場は弦楽器の音が響き、老いも若きも小さな子どもまで、男女が輪になって踊っていた。


 ヘイズヴィークの夏至祭は圧巻だった。


 遠い昔に母と住んでいた王都近くの小さな集落でもあったが、こんなに華やかでなかった。


 王都に居た頃も夏至祭はあったが、その頃は参加する資格もなかった。


 貧困街の住人は忌まれていた。何せ、残飯を漁るだとか、酔っ払いから財布を盗むなどの悪事を働く他、喧嘩事をすぐに起こす。

 ルーンヴァルトの汚点の住人だ。問題の火種になると追い払われていた。なので、いつも遠くから眺めるだけだった。


 傍らに控えるイングリッドも同じ事を考えていたのだろう。

彼女は何度も目をしばたたき、この華やか光景に呆気に取られていた。


 街の人たちはソルヴィに気付くと手を振る。すっかり領主として顔は知れ渡っているようだった。そして、今度は流れるようにノクティアへ視線が向いた。嫌な顔をされるだろうか。そう思ったものの、向けられるものは穏やかなものばかりだった。

 広場の中心地に設置されたポールのもとまで行くと、付近のベンチに座っていた白い髭を生やした品の良さそうな老人が手を上げて挨拶し、近付いて来た。


「町長、お久しぶりです」


 ソルヴィの挨拶とともに、ノクティアは散々練習してきた淑女の一礼をすると、町長は嬉しそうに微笑んでいた。

 しかしこの老人、どこか見覚えがある。どこで会ったか……。ノクティアが神妙に思っていれば──

「結婚式以来ですな、ノクティア様がお元気そうで良かったです。あの日は……」

 なんて話を始めたので、ノクティアは混乱する。


「あの、ごめん。町長さんって……」

「俺たちが結婚式を挙げた教会の司祭様だ」


 ソルヴィは背後の石造りの教会を指し示す。

その答えに納得した。確かにあの日は白い衣を着て厳かな雰囲気だったが、今は街に居る老人と変わらぬ軽装だ。それにあの日は本当に気持ちに余裕なんて無かった。ろくな記憶がない。


「ごめんなさい、私あの日は……」


 ノクティアが詫びると司祭は首を振り『お元気でお幸せなら何よりですよ』と穏やかに微笑んだ。

 そうして暫くソルヴィと司祭は談笑した。その去り際だった。


「ソルヴィ様、ノクティア様。夏至の祝福あらんことを」


 司祭は二人を優しく見つめて、祝福の言葉を述べた。



 その日、ノクティアはこの領地の人間たちの前で紹介された。

 つい最近まで、前領主の娘はただ一人……エリセのみと思われていたので、婦人たちの好奇の視線は確かにあった。

 だが、それは時間の経過とともに薄れていく。焚き火を囲う時間ともなれば、ノクティアは婦人たちに囲われてしまった。


 ソフィアやイングリッドは間に入って守ろうとしてくれたが、年の功には叶わなかったのだろう。母親とそう歳も変わらないであろう婦人たちの前では成す術もなく、雨のように降り注ぎ続けるおしゃべりに付き合わされていた。


「ノクティア様。今、十九歳ですって? うちの娘と変わらないじゃないの」

「侍女さんたちは二十一歳? 二人とも美人さんね。息子たちに紹介したいわぁ」


 そんなかしましい会話の中で懐かしい話題があった。

 結婚式のドレスを作ってくれた店の針子の母親がいたのだ。


「ドレスも刺繍もボロボロ……だけど、ノクティア様の言葉に励まされたみたいですよ」

 ────仕立屋さんが一生懸命に私のドレスに刺繍をしてくれたのは間近で見ている。悲しませるような事はやろうと思えない。


 言った言葉は覚えている。針子たちの悲痛な表情は半年以上経った今も覚えていた。


「私が庶子って事も理由だと思う。一部の使用人や義妹はよく思っていなくて」


 巻き込んでしまった事をノクティアが口にすると、針子の母は首を振る。


「娘はね、ノクティア様の事を〝とても優しい女の子だった〟って言っていたのですよ」


 そんな話の後、婦人はここだけの内緒話と。耳を貸すように言う。


「正直ね、エリセ様もフィルラ様も、立ち振る舞いや態度が高圧的で、そこの仕立屋さんのおかみさんも参っちゃっていたらしいですよ。街にもたまに来ますけどね、どこのお店の人も同じ反応」


 囁くような口調だが、近くの婦人にも聞こえていただろう。

「確かに」

 なんて声が次々に上がって、婦人たちは豪快に笑った。


 ---


 ──太陽の沈まぬ夜は更けていく。一緒に過ごしたいとはいったものの、やはり領主ともなれば領民との付き合いもあるのだろう。ソルヴィは男衆に囲われて酒を飲まされていた。


 彼はグビグビと酒を飲む割に顔色は何一つ変わらない。

 しかしノクティアと目が合うなり、こちらにやってくる。そうして、ノクティアの前で跪いて手を差し出す。


「俺の可愛い奥さん。どうか俺と踊って貰えませんか?」


 その途端に周りからはドッと大きな歓声が上げる。


 ソルヴィの顔色は普段と変わらないが、目が蕩けている。やはり酔っているだろう。

 しかし、そんな様子が今は面白かった。

 ノクティアはソルヴィの手を取って、立ち上がらせると彼を引っ張って生まれて初めて夏至祭の踊りに輪に参加した。


 これまで羨望はあった、密かな憧れだった。

 その日暮らすのに精一杯な貧民でならず者の一員。だからこそ、夏至祭で歓迎され、輪の一員になれた事この日この瞬間を、ノクティアはただ幸せに思った。



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